丹後田辺領京極家35,000石の第3代 高盛は、寛文3(1663)年に弟の高門に領内の2,000石を分知します。ところが高盛は寛文8(1668)年に但馬国豊岡に転封となります。この時に高門の2,000石を併せて但馬に35,000石とされますので、高門は兄高盛と共に但馬に移り、新たに但馬で2,000石を分知されます。
これをもって高門を祖として旗本糸井京極家が成立し、以降幕末まで9代続きます。角川日本地名大辞典 兵庫県和田山町 寺内村(近世)には「京極氏の知行は糸井地区で1,069石、美含郡931石」の計2,000石とされています。また平凡社日本歴史地名体系の兵庫県:朝来郡>和多山町>寺内村には「(糸井京極氏知行地は)養父郡3ヶ村・美含郡7ヶ村であったと推定される」となっており、地名体系を以ってしても糸井京極氏の知行地を確定できなかったようです。
養父郡
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美含郡
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3ヶ村 1,069石
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7ヶ村 931石
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朝来郡和田山町(朝来市)
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城崎郡香住町(美方郡香美町)
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寺内村
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大谷(おおだに)村
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林垣村
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大野村
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(高生田村)
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加鹿野村
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加鹿野村出作
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三谷村
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守柄村
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守柄村出作
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間室村
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油良村
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油良村出作
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美含郡の7ヶ村の出作を除くと930.77石(出作を含めると1,072.45石)になり、地名大辞典のいう美含郡931石とぴったり合います。(寛文8年の分知時と幕末の石高が合うのは、新田開発が出作という形でまとめられているからでしょうか。)
一方の養父郡は、寺内村はそもそも糸井陣屋の所在地ですから、寺内村・林垣村の2ヶ村が糸井京極氏知行地であることは各資料に相違がありません。この2村で幕末(明治初め)の石高が894石ありますので、200石前後の村がもう一村あるはずです。
角川日本地名大辞典には、糸井京極氏の知行地は「糸井地区」にあったと書かれています。中世糸井荘の正確な範囲はわかりませんが、明治22年に行政村としての糸井村は、林垣・寺内・室生・高生田・市場・和田・内海・竹ノ内・朝日の各村が合併して成立しています。
室生・高生田・市場・和田は元禄以降は出石領(嘉永4年の村替えで公料)とされており、歴史地名体系では高生田と市場は相給村とされています。竹ノ内村(朝来市和田山町竹ノ内)は公料、内海村(朝来市和田山町内海)は竹ノ内村の内、出石郡奥山村の内 朝日(朝来市和田山町朝日)は矢根銀山付き公料とされています。
角川日本地名大辞典 兵庫県和田山町 高生田村(近世)では「寛文3年(8年の誤りと思われる)幕府と旗本京極氏の相給、元禄年間からは出石領」とされています。
平凡社日本歴史地名体系 兵庫県:朝来郡>和田山町>高生田村では、@「寛文8年高門領になったと考えられ、豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付(岡本家文書)には高251石余とあるので相給と考えられる」 A「宝永3(1706)年の仙石政明知行目録(仙石家文書)に養父郡五四か村のうちに記載されるので出石領であり、嘉永4年(の村替え)まで同領で推移する」 B「高103石が生野代官支配(公料)で、ほかは出石藩領であった(但馬国両代官所支配村々高帳)」と3つの情報が箇条書きされています。
どちらの辞典も「高生田村は高門に分知された相給村だったが、遅くとも18世紀の初頭には出石領となっていた」となっています。例えば、糸井京極氏と公料の相給から、公料の部分が出石領になったのではないかとも考えてみましたが、そうしますと地名体系Bの「103石の公料・残りは出石領」とは整合しません。
仙石政明知行目録と但馬国両代官所支配村々高帳という出石領・幕府代官それぞれの公文書に、高生田村は我が領(相給)と書かれていますので、高生田村の糸井京極氏知行地は、元禄の頃にいずれかに移されたのではないかと探しましたが、但馬国内では見つけられていません。
文字がある文明の、たかだか200年弱前のことがこんなにもわからない(結構丹念に一村ずつ探しています)のかと思いますが、もし簡単にわかることならば、いくつかの辞典を引けば答えが載っているでしょうし、「糸井京極氏知行地」なりのワードで検索すればすぐにAIが教えてくれるでしょう。ネット上のどこにも該当の情報がないということは、わからないということなのでしょう。
私としては、それが本当に必要なことならば、別のことを調べていてひょっこりと見つかる等、いつか向こうから正解がやってくると考えています。
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