但馬国

出石領境石

 出石領は但馬国出石郡出石を本拠とし、宝永3(1706)年に仙石政明が信州上田より58,000石で入り、以降幕末まで仙石家の治世が続きます。

 しかし出石領仙石家は7代久利の時代に、仙石騒動といわれるお家騒動が起こっており、天保6(1835)年に58,000石から約半分の3万石に減封されます。その後の財政再建の中で、嘉永4(1851)年に村替えが認められており、減封・村替えのたびに領境が大きく変わっています。

 養父市が公開するまちの文化財(113) 養父市場にある領境石を参考にすると、出石領には現存する3基(養父市場・高柳・余部)を含め、計5基の領境石の記録があるようです(5基の根拠は出石封内明細帳か?)。

往還・峠
相対の領・村
建立年
養父郡
養父市場村
山陰街道※1
公料(元豊岡領) 同郡堀畑村
延享4(1747)
現存
高柳村
山陰街道
公料 同郡下八木村畑中(はたがなか)
宝暦4(1754)
現存
若杉村
若杉峠※2
公料※3 播磨国宍粟郡道谷村
延享3(1746)
播磨国境
出石郡
久畑(市場)
登尾峠
上総飯野領 丹波国天田郡上佐々木村
丹波国境
美含郡
余部村
ももうずき峠※4
豊岡領※5 二方郡久谷村
現存・未確認
 ※1近世中期以降の山陰街道は、堀畑村で西に折れ、谷間地(はさまち)越(県道271号線)だったとされる。
 ※2天保の播磨国絵図では道谷峠とされる。 ※3文政6(1823)年から天保元(1830)年は上野館林領。
 ※4平凡社日本歴史地名体系 兵庫県:美方郡>浜坂町>久谷村。
 ※5領境石が建った延享3(1746)年時には豊岡領だが、文化3(1806)年久谷村は村替えされ公料となる。
   その後天保6(1835)年には余部村が出石騒動による減封で収公され、一塊の公料となる。

 このうち若杉(わかす)村(養父市大屋町若杉)と余部村(美方郡香美町香住区余部)、そして高柳村(養父市八鹿町高柳)の大部分は天保6年の減封にて収公されており、養父市場村及び高柳村の出石領残存分は嘉永4年の村替えで収公されてしまいますので、幕末まで出石領だったのは久畑村の登尾峠だけです。

 登尾峠の出石領境石は、平凡社日本歴史地名体系 京都府:福知山市 上佐々木村(相対村側)に「(登尾峠の)頂上には、『従是西出石領』という石柱が建っていた』と記録があります(現存せず)。

 その他の領境としては、例えば旧山陰街道上の両領境石が建つ養父市場村と高柳村の間では、養父郡上網場(なんば)村(天保6年の減封まで出石領)と同郡下網場村(豊岡領から享保11<1726>年の減封により公料)との境や、同郡八鹿村(公料)と同郡国木(くぬぎ)村(嘉永4年の村替えまで出石領)の境も領境になりますが、それら細かな領境には境石を建てた記録がなく、両端にだけ建てられたことになります。

 また、但馬浜街道(平凡社日本歴史地名体系 兵庫県:城崎郡>香住町>香住村・余部村他)の西口である余部村に「従是東出石領」の境石が建ったならば、同往還上の逆口となる美含郡森本村(天保6年の減封まで出石領/豊岡市竹野町森本)と城崎郡江野村(郷野/豊岡領から享保11<1726>年の減封により公料)の境である江野峠(平凡社日本歴史地名体系 兵庫県:豊岡市>江野村)には「従是西出石領」境石が必ず建てられるべきだと思うのですが、まちの文化財(113) 養父市場にある領境石を読む限りその記録はないようです。

 天保の但馬国絵図には森本村の内 苗原が郡境寄りとされています。桑原神社(豊岡市竹野町森本463−1)が字苗原(地理院地図には苗原の字が見えます)にあり元は苗原神社とよばれていたとされており、森本村の竹野川(天保の但馬国絵図では市場川とされる)東岸が苗原となるようです。また、現在の国道178号線は森本から竹野川沿いに河内を経て本見塚につながりますが、天保の但馬国絵図に描かれる但馬浜街道は、坊岡村・森本村市場から(たぶん木谷川沿いに)直接本見塚とつながっているとされています。

 試しに現存する養父市場と高柳の出石領境石を並べてみましたが、建立に7年の差があることもあり、手(筆跡)は違いました。


養父市場         高柳

 出石領域の変化を知るために必要に応じて検索していましたが、すぐに忘れて同じ村を何度も検索するので、私が必要だった範囲でまとめようとしたのですが、結局すべてまとめました。

 は村替えにより出石領に復した村の内、旧高旧領取扱帳データベースでは旧領名が空白の村(減封及び村替えにより収公された村は空白、出石領として推移した村及び村替えで出石に復した村は「出石藩」が同データベースの基本表記)。

 白文字は小出時代からの出石領(豊岡市立図書館が公開する出石町史1巻 P395)の村。同書を出典としたため、同書には記載されていないのちに分村した村は「〇〇村(及び××村)」と表記しています。

 水色文字は松平(藤井)家入部時(元禄10<1697>年)から出石領の村(同 出石町史1巻 P479)。松平忠周(ただちか)は48,000石で入部するが、旧小出出石領50,000石から分家の旗本4家の6,000石及び矢根銀山付1,000石を差し引き43,000石に、旧和泉国陶器領が但馬に持っていた5,000石(気多郡10ヶ村・美含郡28ヶ村)を加えて48,000石。陶器領小出家は元禄9(1696)年無嗣断絶し公料となっていた。

 黄色文字は経緯が不明の村。美作・丹後はそれぞれの欄に。

 村替えにより収公された・出石に復した村は出石町史1巻(P830)を出典とする。現在の市町単位では大きすぎて塊りがわかりづらいため、平成の大合併以前の市町で分けています。

但馬国
天保6年の減封により
出石領ではなくなった村
嘉永4年の村替えにより
出石領ではなくなった村
幕末時点で出石領だった村
養父郡
養父町
(養父市)
伊豆村 上ヶ村(土田小出氏との相給)
浅野村
上野村(大藪小出氏との相給)
小城村
広谷村
門前村
養父市場村
藪崎村
奥米地(おくめいじ)
鉄屋米地村
口米地村
左近山村
新津村
玉見村
中米地村
八鹿町
(養父市)
青山村
小佐村(公料との相給)
高柳村(一部収公され相給となる)
上網場村
三谷村
宿南村

朝倉村(及び伊佐新田)
浅間村
上小田村
国木村
小山村
坂本村
下小田村
高柳村(減封後の出石領部分)
舞狂村
米里(めいり)
大屋町
(養父市)
筏村
糸原村
上山村
大杉村
大屋市場村
笠谷村
加保村
蔵垣村
樽見村→村替えにより出石領
中村→村替えにより出石領
中間村
夏梅村→村替えにより出石領
宮垣村→村替えにより出石領
山路村
横行村
若杉(わかす)
以下は嘉永4年の村替えにより
出石領に復した村

樽見村
中村
夏梅村
宮垣村

和田山町
(朝来市)
市場村※1
高生田(たこうだ)※1
室尾村※1
和田村※1
※1日本地名大辞典では「元禄年
間から出石領」、歴史地名体系で
は市場村と高生田村は公料との
相給とされる。
日高町
(豊岡市)
赤崎村
浅倉村
気多郡
日高町
(豊岡市)
上石村
石立村→村替えにより出石領
池上村
江原村→村替えにより出石領
海老原村
大岡寺村
上郷村東組(西は豊岡→公料)
久斗村東組(西は豊岡→公料)
栗栖野村
国分寺村→村替えにより出石領
(頃)垣村
(国府)(東)芝村(西は山本小出氏
竹貫村
太多(田)
多田屋村※2(現鶴岡)
土居村
道場村
栃本村
名色村※2
夏栗村
祢布(によう)村西組(東は山本小出
氏)→村替えにより出石領
野々庄村
日置村
東河内村
府市場村
堀村(及び新村)
松岡村
万劫村
万場村
水口(みのくち)
山田村
山宮村
宵田村(及び岩中村・地下村)→村替
えにより出石領
※2出石町史第1巻には、小出家
時代から出石領の村と松平家入
部時に出石領になった村のどち
らにも名色村があり、多田屋村
のみがどちらにも記載されていま
せん。よってどちらかが多田屋村
だと思われます。

角川日本地名大辞典の記載か
ら、多田屋村を小出時代からの
出石領、名色村を松平入部時か
らの出石領としました。

角川日本地名大辞典兵庫県日
高町(各近世)

名色村「出石藩→慶長9年和泉
国陶器藩→元禄9年幕府領→同
11年出石藩領→天保6年幕府
領」

多田屋村「はじめ出石藩領→天
保6年幕府領」
以下は嘉永4年の村替えにより
出石領に復した村

石立村
江原村
国分寺村
祢布村西組
宵田村(及び岩中村・地下村)

竹野町
(豊岡市)
(はじかみ)(椒4ヶ村)
豊岡市
(豊岡市)
上佐野村
加陽村
清冷寺村(及び八社宮<はさみ>村)
引野村
土淵(ひじうち)
伏村
中郷村
美含郡
竹野町
(豊岡市)
阿金谷村→村替えにより出石領
芦谷村→村替えにより出石領
宇日村→村替えにより出石領
円通寺村→村替えにより出石領
大谷村→村替えにより出石領
大森村
鬼神谷村→村替えにより出石領
御又村
(川)南谷(かなんだに)
河内村
神原村
切浜村→村替えにより出石領
金原村→村替えにより出石領
草飼村→村替えにより出石領
桑野本村
小城村(及び二連原村)
小丸村→村替えにより出石領
下塚村→村替えにより出石領
(浜・奥)須井村→村替えにより出石領
須谷村→村替えにより出石領
須野谷村
田久日村→村替えにより出石領
竹野村→村替えにより出石領
轟村→村替えにり出石領
羽入村→村替えにより出石領
坊岡(ぼおか)
林村→村替えにより出石領相給
松本村→村替えにより出石領
森本村
門谷村
和田村→村替えにより出石領
以下は嘉永4年の村替えにより
出石領に復した村

阿金谷村
芦谷村
宇日村
円通寺村
大谷村(明治以降の東大谷)
鬼神谷村
切浜村
金原(きんばら)
草飼村
小丸村
下塚村
(浜・奥)須井村
須谷村
田久日村
竹野村
轟村
羽入村
林村(地名大辞典では南の9軒のみ公
料とされる)
松本村
和田村
香住町
(加美町)
相谷村→村替えにより出石領
余部村(及び鎧村)
奥安木村(及び浜安木村)→村替えに
より出石領
香住村
上岡村→村替えにより出石領
九斗村→村替えにより出石領
訓谷村→村替えにより出石領
小原村
境村→村替えにより出石領
下岡村→村替えにより出石領
下浜村
中野村
七日市村
丹生上ヶ村→村替えにより出石領
丹生浦上村→村替えにより出石領
丹生沖浦村→村替えにより出石領
丹生地村→村替えにより出石領
畑村
土生村
隼人村→村替えにより出石領
一日市(ひといち)
藤村
本見塚村
三川村
無南垣村→村替えにより出石領
米地村→村替えにより出石領
森村
矢田村
八原村
若松村

以下は嘉永4年の村替えにより
出石領に復した村

相谷村
奥安木村(及び浜安木村)
上岡村
九斗村
訓谷村
境村
下岡村
生上ヶ村
丹生浦上村
丹生沖浦村
丹生地村
隼人村
無南垣村
米地村
浜坂町
(新温泉町)
九斗山村
出石郡
出石郡内出石領の村は減封及び村替えによる変更なし
(下記の倉見小出領及び矢根銀山付き公料以外の村は出石領)

 以下は私の覚え書きです。

 出石町史の第1巻395P「寛文印知集に見る出石領図」(寛文4<1664>年)には、出石郡に「長谷沢」村が見えます。長谷沢村は単独の村名としては他の資料に出てきませんが、同書のP406に「長谷村沢地106石とされるが、湿地のままで作付けは思うにまかせず」とあり、「年貢が課されないこの地を、長谷村(倉見小出領)の村民が利用していたと思われる」となっています。

 角川日本地名大辞典の兵庫県豊岡市長谷村及び香住村(共に近世)には、「元禄元(1688)年長谷村と香住村(出石領)で沢を開き、石高106石」とされていますので、これが長谷村沢地や長谷沢村といわれる地であり、出石町史P429の村高一覧では「長谷沢開106.62石」とされています。長谷と香住の間の沢を開拓していますので、現在の神美台あたりが該当するのでしょうか。

 長谷沢の新田開発については、出石町史第1巻のP406及びP413〜414に詳しく書かれています。本稿と直接関係がないので触れませんが、商人資本による新田開発の過程を、その結末を含めて大変興味深く読みました。

美作国
天保6年の減封により出石領ではなくなった村
勝南郡

 仙石家が出石入部時に、出石には48,000石(前任の松平家が
48,000石)しかなかったため、播磨国加東郡に2,936石余・及
び加西郡に7,152石余の計10,000石余を付けられたが、延享
4(1747)年に加郡から美作国へ領地替えがなされ、仙石騒動
により天保6年にすべて収公される。

勝央町
岡村
為本村
津山市
金井村(里金井村)
中原村(里金井村中原分)
柵原町
(美咲町)
周佐(すさ)
百々(どうどう)
美作町
入田(にゅうた)
明見(みょうけん)

丹後国
天保6年の減封により出石領ではなくなった村
竹野郡

 仙石家が出石入部時に、出石には48,000石しかなかったた
め、播磨国加西郡に7,152石余・及び加東郡に2,936石余の計
10,000石余を付けられていたが、宝暦13(1763)年に加西
から丹後国へ領地替えがなされ、仙石騒動により天保6年にすべ
て収公される。

 播磨から丹後への領地替えですが、本拠の出石からは手が届く
ほど近くなっています。

(丹後の出石領は、出石領境石に必要だったわけではなく、宮津領
境石の検討のために調べました。美作国の出石領はそのついでで
す。)
網野町
(京丹後市)
高橋村
丹後町
(京丹後市)
一段村(一之段村とも)
大山村
神主(こうぬし)
竹野(たかの)
力石村
筆石村
宮村
弥栄町
(京丹後市)
吉沢(よつさわ)(公料との相給)
熊野郡
久美浜町
(京丹後市)
(芦)原村
海士村
(一)分村
葛野村
鹿野村
神崎村
坂井村
三分村
谷村
橋爪村
平田村
油池村
 
(参考)旗本小出氏領
寛文6(1666)年に5代出石領主吉重が、弟の英本・英信に2,000石ずつ、孫(養子)
の英勝に1,000石を分知したもの。
延宝元(1673)年に6代英安が、弟の英直に分知したもの。
英本系倉見小出氏
英信系大藪小出氏
英勝系山本小出氏
土田※4(はんだ)小出氏
2,000石
※32,000石→1,500石
1,000石
1,500石
出石郡
養父郡
気多郡
養父郡
豊岡市
倉見村
長谷村
養父町
(養父市)
稲津村
上野村(相給)
大塚村
大藪村
畑村
日高町
(豊岡市)
(国府/西)芝村
祢布村東組
水上村
八代中村
山本村
和多山町
(朝来市)
寺谷村
土田村
東谷村
平野村
但東町
(豊岡市)
高竜寺村
東里(とうり)
中赤花村
西野々村
畑山村
日向(ひなだ)
八鹿町
(養父市)
岩崎村
大江村
養父町
(養父市)
上ヶ村(相給)
十二所村
 ※3英信は長男(大藪2代)英輝に1,500石・次男英長に500石とさらに分知。その後、元禄5(1692)年に7代領主
小出英益が死去したが、嗣子がおらず大藪小出家より英長が本家を継ぎ、この時に英長の500石を本領に併合した。
小出吉英が50,000石にて出石再封→英重が弟らに5,000石を分知(45,000石)→英安が弟に1,500石を分知
(43,500石)→英長が500石を持って出石を継ぐ(44,000石)。

 土田小出氏知行地となった寺谷村・土田村・東谷村・平野村の和田山町の4ヶ村は、英直に分知された延宝元(167
3)年までは出石領だったはずですが、出石町史の第1巻P395 寛文4(1664)年の「寛文印知集に見る出石領図」に
記載がありません。

 平凡社日本歴史地名体系 兵庫県:朝来郡>和田山町>土田村には「慶長18(1613)年の小出吉英所領目録(金井
文書)に土田村と見え、高908石とあるのは周辺の諸村を含む石高と考えられる」とされており、同辞典では東谷村・平
野村も寛文4(1664)年「小出吉英領知目録」を根拠としてそれぞれ出石領とされています。

 大藪小出氏英信に分知された2,000石の内、英輝の1,500石は「寛文印知集に見る出石領図」に記載(印付け)
がありますが、英長の500石には同図では触れられていません。この500石も、英信に分知されるまでは出石領だっ
たはずなのですが。

 ※4土田公民館や土田橋には漢字辞典ONLINE)の文字が使われていました。
矢根銀山付き公料(出石郡)
但東町
(豊岡市)
太田市場村
唐川村
木村
矢根村
(口矢根・奥矢根)

中山村※5

(奥山村朝日)
 ※5出石町史の第1巻P395「寛文印知集に見る出石領図」(寛文4<1664>年)では、中山村は他の4ヶ村と共に「1697(元禄10)年生野代官支配となる」とされます。角川日本地名大辞典 兵庫県但東町 中山村(近世)では「元禄9(1696)年からは幕府領。ただし、幕府領となったのは当村の一部ともいわれる」とされています。(元禄9年10月小出家が断絶し幕府領となる。元禄10年2月松平家に出石転封により、松平領に含まれなかった矢根銀山付き公料は生野代官の支配下に置かれる。)

 旧高旧領取扱帳データベースでは、中山村は枝村の虫生村と共に「出石藩」(同データベースの出石郡は、中山村を除く矢根銀山付き公料4ヶ村のみの旧領が空白)。一方で、中山村は明治以降に久美浜県所属だった(三治制による県=藩領ではなかった)という記述も見られます(参考:久美浜代官所における郡中代と郡中改革)。

 矢根銀山付き公料は1,000石(出石町史第1巻P422/元禄時点での石高と思われる)とされますが、中山村を除いた4ヶ村の幕末(明治初め)の石高を足しこむと1,448石余になります。

 これに枝村虫生村分を除いた中山村577石を足すと、幕末(明治初め)の石高とはいえ2,000石を超えてしまいます。中山村は確かに公料だった痕跡がありますが、地名辞典のいう通りそれは一部分に過ぎなかったかもしれません。

 またこの時に、出石郡奥山村(豊岡市出石町奥山)のうち尾根を越えて養父郡側にあった朝日(朝来市和田山町朝日)が分割され、この98石が矢根銀山付き公料になっています。

 矢根銀山と奥山村朝日には距離がありますが、養父郡側奥山村朝日には金鉱(糸井鉱山)があり採掘が行われていたので、小出家断絶によりいったん公料となったこの機会に、松平(藤井)家の新領地に含めず矢根銀山付き公料に含められています。

 出石町史第1巻P422がいう「矢根銀山付き公料1,000石」に養父郡側奥山村朝日の98石も含まれるのかは資料を見つけられていません。
 
 2025/06/01

山陰街道(豊岡街道)(養父市場村)
文 字
 三面に)従是北出石領

表面

 
左面                                    右面
場 所
 現在は養父コミュニティセンター(養父市養父市場506−1)前に。山陰街道上、嘉永4(1851)年の村替えまで出石領だった養父郡養父市場村と、その南の同郡堀畑村(豊岡領から享保11<1726>年の京極家減封により公料となる)との境に置かれたものとされています。

旧山陰街道は養父駅のあたりで県道255号線から分かれ、円山川川端の道という情報が複数あり、その情報に依ると山陰街道上の養父市場と堀畑の境は地理院地図で見たこの地点になりますでしょうか。

平凡社日本歴史地名体系 兵庫県:養父郡>養父町 堀畑村には「近世中期以降の山陰道は、堀畑村で西に折れ、谷間地(はさまち)越で上野村へ至った」とされる。地理院地図でははさまじの字がここに見えますので、県道271号線(国道9号線)ルートになるようです。
備 考
 養父市が公開するまちの文化財(113) 養父市場にある領境石を参考にすると、出石封内明細帳に「堀畑村境、御分杭これあり、従是北出石領、延享四年より石になる」と記録されているとされ、元々領境の木杭が建っていたものを石に置き換えたようです。領境石としては延享4(1747)年ですので公料境に建てられたものですが、享保11(1726)年の無嗣廃絶騒動で堀畑村が収公される以前の豊岡領境時代から、木の領境標が建っていたのかもしれません。

折れのため鉄枠で補強。
サイズ
高さ 170×横 25×奥行 25(cm) 鉄枠のサイズ               2025/06/01

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