丹後国

丹波国絵図に見る国境石と国境の小名(丹後境)

丹波境(宮津領境石)

神宮寺峠(与謝郡雲原村)
文 字
 三面に)従是東宮津領


 
左面/表面                                    表面/右面
場 所
 丹後国与謝郡雲原村(宮津領/福知山市雲原)と丹波国天田郡上佐々木村(延宝5<1677>年以降は上総飯野領/同市上佐々木)の境である神宮寺峠。現在の府道530号線。

神宮寺峠から宮津領域を見渡すと北東というべき方角になります。この地域の古地図を見つけられず、往時の神宮寺峠の道筋は分かりませんが、現在の神宮寺峠から府道530号線の向きを見ると、ぎりぎり東でもおかしくはないのかなと感じています。

丹後国与謝郡雲原村が丹波国域の福知山市と合併した経緯はこちらに。
備 考
 丹後・丹波の国境ですが、「これより東は宮津領」と領境石の形式を取っています。そのような例は津和野領境石など数多く見られますが、由良川沿いの宮津街道(国道175号)上、加佐郡日藤村の内境川(宮津領/福知山市大江町日藤)に建てられた丹後国境(宮津領境)石に関して、角川日本地名大辞典 京都府福知山市 下天津村(近世)に「村の北端に国境領杭があり、『従是北丹後国宮津領』と記される」とされています。相対村の下天津村欄に記録されていますが、この国境石は現存しません。

出典は不明(丹波志の下天津村には「国境領杭」としか書かれていない)ながら、角川日本地名大辞典はなんらかの根拠に依って、『丹後国宮津領』銘としているはずです。同じ宮津領が同じ丹波国境に建てる境石に、片や国境石とし、片や領境石と違っています。

これは神宮寺峠は対上総飯野領境ですから、もし飯野領保科家(上佐々木)が境石を建てたならば、同じく「従是『方角』飯野領」となったでしょう。宮津街道沿いは対福知山領境ですから、福知山(下天津)側が境石を建てたならば、陰街道小倉村牛尾峠(天田峠)のように「従是『方角』丹波国福知山領」としたでしょう。

それぞれ相手に合わせて銘を変えたのならば、おかしなことではないのかもしれません。


前面・右面に比べて左面の文字はかなり薄くなっています。左面を上に向け横倒しに放置された期間が長く、風雨を受け続けた結果なのかもしれません。

神宮寺峠の宮津領境石の20mほど西南には、助太郎やなぎ跡の記念碑が建っています。


電柱を挟んで宮津領境石と助太郎やなぎ跡の碑

雪に埋もれて私は読めませんでしたが、碑の下部には「小の原(小野原/上佐々木の字)の助太郎が、国境の印として植えた幹回り5尺の柳があったが、道路拡張により切られた」旨のことが書かれているそうです。(参考:ホームページ路面と勾配

国境(峠)よりも若干自領に下げて植えたのは、日本人が持っていた慎みなのでしょうか。
サイズ
高さ 193×横 22.5×奥行 22.5(cm)  2025/04/01

宮津領境石

間人街道(中郡周枳村)
文 字
 三面に)従是東南宮津領

表面

 
   左面                                    右面/裏面
場 所
 現在は京丹後市大宮町周枳1020の大宮賣神社境内に。


大宮賣神社

大宮賣神社の石燈篭のうちの一基には「徳治二(1307)年丁未三月七日」の銘があり、2基ともに重要文化財だそうです。
備 考
 天保の丹後国絵図を見ると、中郡三重村(宮津領/京丹後市<以下同>大宮町三重)から西に延びた往還が、三坂村(公料/大宮町三坂)の先で2つに分かれ、一方は川(竹ノ川)の東を通り周枳(すき)村(宮津領/大宮町周枳)へ、もう一方は竹ノ川を渡り口大野村(宮津と峰山の相給/大宮町口大野)へと向かっています(口大野村へ向かう道は該領境石欄に書きます)。

周枳村を通る道は、平凡社 日本歴史地名体系 京都府:中郡 大宮町周枳村では「村の東側を間人(たいざ)街道が通る」とされており、確かに天保の丹後国絵図上のこの往還をたどると、竹野郡間人村(公料/丹後町間人)へとつながっています。間人街道と言われる道は複数あり、同辞典 竹野郡>間人街道ではこの往還は「上山田(与謝郡野田川町)(宮津領/与謝野町上山田)-間人」を結ぶ間人街道とされています。

間人街道の後継道が府道656号間人大宮線となるでしょう。天保の丹後国絵図で見ると、間人街道上の周枳村の隣りは同郡河部村(峰山領/大宮町河辺)となり、その位置関係は東南が周枳となります。

周枳の宮津領境石は、口大野の宮津領境石と比べるとひと回り・ふた回り小さく、この両者は同じ目的なのか疑問を感じましたが、いちおう今のところは紛争があった(紛争が起こりそうな)地点に建てられた実務領境石ではなく、往還上に建つ象徴領境石だったのではないかと考えています。

この地域の古地図を見つけることが出来ず、旧間人街道の道筋がわかりませんが、とりあえず府道656号線上の領(町丁)境はここになります。
サイズ
高さ 117×横 21.5×奥行 22(cm)     2025/05/01

宮津領境石について
 
 多くの境石のデータの中から、今回はこの地域に取材に行こうと決めた時には、当然ある程度事前に情報を収集します。京丹後市旧大宮町の隣り合った村に、それぞれ「これより東南が宮津領」の領境石が残っているのならば、同じサイズ感で、もしかすると同じ手(筆跡)ではないかと想像していました。

 ところが実際に見学すると、大宮賣神社(周枳村)は三面彫り、常徳寺(口大野村)は一面彫りであることに、また両石のサイズの違いにも驚きました。口大野村の領境石は、往還上に建ち行政権・司法権を主張する象徴的領境石のサイズです。

 周枳村の領境石は領境争いの結果(領境争い予防のため)紛争地点に建つ実務的な領境石ではないかとも考えましたが、その場合は一基だけではなく数基が建ったはずです。その中で偶然一基のみが現存するのも考えづらいかもしれません。さらには周枳村の宮津領境石の文字は、上手いというよりは御家流とでも言いましょうか趣があり、村仕事ではなく、書くべき立場の人が書いたもののように思えます。

 筆跡の違いについて試しに「是」の文字を、雲原村神宮寺峠の宮津領境石も一緒に並べてみます。


口大野村                    周枳村                    雲原村

 まずは部首の「日」がそれぞれ違いますが、9画目の最後の払いはそれぞれの特徴がよく出ています。口大野は短く力強く払っています。周枳は払わずに長く引っ張っています。雲原は上向きに伸び伸びと払っています。あきらかに三者三様別人の文字です。

 隣り合う村に同じ宮津領境石が現存するのに、サイズ・彫り面数等に統一性がないのはなぜでしょう? それぞれが村請負だったにしては、周枳村の文字は特徴的ですし、口大野村の領境石は立派です。

 その事情を知る史料を私は持っていませんが、例えば、いったんはお家の事業として同じようなものを作ったが、何らかの事情で滅失・遺失し、作り直した時には質素なものにした(逆にお家の象徴として立派なものにした)等はあり得るかもしれません。宮津領は宝暦8(1758)という街道上に多くの境石が建てられた時期に、青山家から(本庄)松平家へ領主交代があっています。もし建てたお家が違えば、規格が違って来ることは不思議ではないのかもしれません。

 また、私はこの地域では周枳村と口大野村の宮津領境石しか存在を知りませんが、中郡三重村(京丹後市<以下同>大宮町三重)は天和元(1681)年(同年阿部家入部)以降は一貫して宮津領ですが、西隣の同郡三坂村(大宮町三坂)は、享保2(1717)年に宮津領から公料となっています(同年に奥平9万石から青山48,000石に領主交代)。三重と三坂の境、そして口大野と三坂の境はそれぞれ宮津領と公料の領境です。

 一方、口大野の領境石の欄で触れます網野街道は「口大野-上菅-峯山町-赤坂-石丸-生野内-郷」(平凡社歴史地名体系)とされており、ほぼ府道17号線どおりの道筋だったと思われます。仮に府道17号線で見ますと、口大野村の隣りの善王子村から中郡石丸村(峰山町石丸)までは峰山領域ですが、それ以降は宮津領の竹野郡(以下同)生野内村(網野町生野内)、公料の公庄村(網野町公庄)・宮津領郷村(網野町郷)・出石領(出石騒動による天保6年の減封により公料)の高橋村(網野町高橋)とモザイクに絡み、下岡村(網野町下岡)以降は宮津領域となり網野村(網野町網野)に至ります。

 三坂村境は対公料境なので遠慮した・間に挟むのが三坂村一村だけだったので、わざわざ領境石は建てなかったなどの事情があった可能性もありますが、網野村周辺は下岡村・小浜村(網浜町小浜)・浅茂川村(網野町浅茂川)・島溝川村(網野町島津)・掛津村(網野町掛津)・新庄村(網野町新庄)や岡田村・中館村等木津庄の一部(網浜町木津)など一塊の大きな宮津領域になります。

 網野街道上 口大野村の峰山領境に領境石が建ったならば、同街道上 出石領高橋村と宮津領下岡村の境には宮津領境石が建ってもおかしくないはずですが、それらの史料・資料には行き当たりません。出石領境石の欄に書きましたが、丹後国の出石領21ヶ村は宝暦13年(1763)〜天保6年(1835)までの間。

 さらには宮津領と田辺領は北から、与謝郡(以下同)栗田枝郷 脇村(宮津市字脇)と加佐郡(以下同)由良村の内 脇(宮津市字良脇)・栗田枝郷 新宮村(宮津市字新宮)と上漆原村(舞鶴市字上漆原)・上宮津郷小田村(宮津市字小田)と大俣村(舞鶴市字大俣)との間の与謝・加佐郡境が領境となります。 西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図(文化12<1815>年)では脇村とされる。
 
 その南は旧大江町(現福知山市大江町の各町)が宮津領になりますので、以降は加佐郡内の旧大江町(宮津領)と舞鶴市(田辺領)の境が領境となりますが、宮津・田辺領境にも領境石の記録は見つけられません。

近江国の宮津領境石はこちらに。
   2025/05/01 

網野街道(中郡口大野村)
文 字
 従是東南宮津領
 
表面                                裏面(虎目になっている)
場 所
 現在は京丹後市大宮町口大野858の常徳寺の境内に。


常徳寺
備 考
 周枳村の欄で書きました、三坂村の先で分かれ竹ノ川の西側を通り口大野村(宮津・峰山の相給)へ至る道は、平凡社日本歴史地名体系 京都府:中郡 大宮町口大野村では「(口大野村は)網野街道沿いの西側」とされています。

天保の丹後国絵図上の往還は、口大野村の北端で2股に分かれています。東の道が網野街道(府道17号線)と思われますが、西の道は熊野郡久美浜村(公料/京丹後市久美浜町)へとつながる「久美浜街道(善王寺-長岡-鱒留川右岸-二箇-五箇-鱒留-比治山峠-佐野-野中-橋爪)」(平凡社日本歴史地名体系 久美浜街道)とされています。

そして、どちらの道も分かれた先ですぐに中郡善王寺村(峰山領/大宮町善王寺)域になります。

さて問題は、口大野村の宮津と峰山の相給です。角川日本地名大辞典 京都府大宮町 口大野村(近世)には「宮津藩領分高679石余・戸数約200、峰山藩領分高107石余・戸数42」とされており、領地区切りのある坪分け(村の中に領境がある)かと思ったのですが、私が丹波・丹後で参考にさせてもらっている「丹後の地名」の口大野欄には、「峰山藩領の越石」とされています。

越石ならば領地区切りはなく村全体が宮津領になり、峰山側に越石分の米を渡すだけです。しかし、100石を超える越石は大きすぎると思えますし、上記のように地名辞典には軒数42戸と細かな数字まで挙げられています。元和8(1622)年の宮津領郷村帳に「峯山領越石63.048石」となっており、峰山領成立の初期には63石の越石だったものが、後には100石を越え坪分け(領地区切り)になったのかもしれません。(明治以降、口大野村の峰山領分は「峰山県・豊岡県を経て京都府」とされています。)

口大野村は宮津領と峰山領の、領地区切りのある坪分けの相給だったのではないかと考えていますが、具体的に口大野のどこに峰山領があったかは調べきれませんでした。

宮津領口大野村が隣りの峰山領善王寺村と往還上で境を接していたと仮定すると、候補場所は網野街道上ならばこの場所久美浜街道上ならばこの場所になります。口大野に現存する宮津領境石は1基のみですが、領境の際に建てるならば、両往還上にそれぞれ建てなければならなかったでしょう。それならばいっそ領境から少し控えて、追分に1基のみを建てたと考えれば現存1基と数が合います。

口大野地区地域づくり計画書」(平成25年6月改正/京丹後市大宮町口大野区)の12ページ(リンク先はPDF)にこの領境石は「小字山崎にあったもの」とされています。また国立文化財機構奈良文化財研究所のHPによれば、山崎城跡は「口大野字山崎」にあるとされています。字山崎の正確な範囲は確定できませんでしたが、山ア城跡がここになります(ただし、同地に城跡はない模様)ので、網野街道と久美浜街道の追分あたりに建てたという推測は、大きく間違ってはいないはずです。

一方で、字山崎が峰山領善王寺村と地続きの峰山領域だった可能性も考えてみましたが、その場合は峰山領域となる「字山崎に宮津領境石が建っていた」という記述にならず、峰山領字山崎と接する宮津領の「字○○に建っていた」とされるのではないでしょうか。



本稿とは関係がありませんが、口大野の街並みはこのまま「三丁目の夕日」のロケに使えそうです。
サイズ
高さ 183×横 26×奥行 22(cm)         2025/05/01

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