多くの境石のデータの中から、今回はこの地域に取材に行こうと決めた時には、当然ある程度事前に情報を収集します。京丹後市旧大宮町の隣り合った村に、それぞれ「これより東南が宮津領」の領境石が残っているのならば、同じサイズ感で、もしかすると同じ手(筆跡)ではないかと想像していました。
ところが実際に見学すると、大宮賣神社(周枳村)は三面彫り、常徳寺(口大野村)は一面彫りであることに、また両石のサイズの違いにも驚きました。口大野村の領境石は、往還上に建ち行政権・司法権を主張する象徴的領境石のサイズです。
周枳村の領境石は領境争いの結果(領境争い予防のため)紛争地点に建つ実務的な領境石ではないかとも考えましたが、その場合は一基だけではなく数基が建ったはずです。その中で偶然一基のみが現存するのも考えづらいかもしれません。さらには周枳村の宮津領境石の文字は、上手いというよりは御家流とでも言いましょうか趣があり、村仕事ではなく、書くべき立場の人が書いたもののように思えます。
筆跡の違いについて試しに「是」の文字を、雲原村神宮寺峠の宮津領境石も一緒に並べてみます。

口大野村 周枳村 雲原村
まずは部首の「日」がそれぞれ違いますが、9画目の最後の払いはそれぞれの特徴がよく出ています。口大野は短く力強く払っています。周枳は払わずに長く引っ張っています。雲原は上向きに伸び伸びと払っています。あきらかに三者三様別人の文字です。
隣り合う村に同じ宮津領境石が現存するのに、サイズ・彫り面数等に統一性がないのはなぜでしょう? それぞれが村請負だったにしては、周枳村の文字は特徴的ですし、口大野村の領境石は立派です。
その事情を知る史料を私は持っていませんが、例えば、いったんはお家の事業として同じようなものを作ったが、何らかの事情で滅失・遺失し、作り直した時には質素なものにした(逆にお家の象徴として立派なものにした)等はあり得るかもしれません。宮津領は宝暦8(1758)という街道上に多くの境石が建てられた時期に、青山家から(本庄)松平家へ領主交代があっています。もし建てたお家が違えば、規格が違って来ることは不思議ではないのかもしれません。
また、私はこの地域では周枳村と口大野村の宮津領境石しか存在を知りませんが、中郡三重村(京丹後市<以下同>大宮町三重)は天和元(1681)年(同年阿部家入部)以降は一貫して宮津領ですが、西隣の同郡三坂村(大宮町三坂)は、享保2(1717)年に宮津領から公料となっています(同年に奥平9万石から青山48,000石に領主交代)。三重と三坂の境、そして口大野と三坂の境はそれぞれ宮津領と公料の領境です。
一方、口大野の領境石の欄で触れます網野街道は「口大野-上菅-峯山町-赤坂-石丸-生野内-郷」(平凡社歴史地名体系)とされており、ほぼ府道17号線どおりの道筋だったと思われます。仮に府道17号線で見ますと、口大野村の隣りの善王子村から中郡石丸村(峰山町石丸)までは峰山領域ですが、それ以降は宮津領の竹野郡(以下同)生野内村(網野町生野内)、公料の公庄村(網野町公庄)・宮津領郷村(網野町郷)・出石領(出石騒動による天保6年の減封により公料)の高橋村(網野町高橋)とモザイクに絡み、下岡村(網野町下岡)以降は宮津領域となり網野村(網野町網野)に至ります。
三坂村境は対公料境なので遠慮した・間に挟むのが三坂村一村だけだったので、わざわざ領境石は建てなかったなどの事情があった可能性もありますが、網野村周辺は下岡村・小浜村(網浜町小浜)・浅茂川村(網野町浅茂川)・島溝川村(網野町島津)・掛津村(網野町掛津)・新庄村(網野町新庄)や岡田村・中館村等木津庄の一部(網浜町木津)など一塊の大きな宮津領域になります。
網野街道上 口大野村の峰山領境に領境石が建ったならば、同街道上 出石領※高橋村と宮津領下岡村の境には宮津領境石が建ってもおかしくないはずですが、それらの史料・資料には行き当たりません。※出石領境石の欄に書きましたが、丹後国の出石領21ヶ村は宝暦13年(1763)〜天保6年(1835)までの間。
さらには宮津領と田辺領は北から、与謝郡(以下同)栗田枝郷 脇村(宮津市字脇)と加佐郡(以下同)由良村の内 脇※(宮津市字由良脇)・栗田枝郷 新宮村(宮津市字新宮)と上漆原村(舞鶴市字上漆原)・上宮津郷小田村(宮津市字小田)と大俣村(舞鶴市字大俣)との間の与謝・加佐郡境が領境となります。 ※西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図(文化12<1815>年)では脇村とされる。
その南は旧大江町(現福知山市大江町の各町)が宮津領になりますので、以降は加佐郡内の旧大江町(宮津領)と舞鶴市(田辺領)の境が領境となりますが、宮津・田辺領境にも領境石の記録は見つけられません。
近江国の宮津領境石はこちらに。
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