箱崎営業所


 昭和15年最新福岡市地図(北が上ではなく、海が上になっている)を見ると、箱崎八幡宮の東に箱崎町役場があります。そして、箱崎八幡宮の西〜九
州本線 箱崎停車場(現在のJR鹿児島本線 箱崎駅よりも南にある)の南側を行政境の地図記号が走っており、箱崎停車場以東は宇美川が行政境と
なっています。

 ここが那珂郡千代町(馬出)と糟屋郡箱崎町(箱崎)の郡境になり、私の本来のテーマである糟屋表郡境石も箱崎1丁目と馬出5丁目の間に現存して
います。

 糟屋郡箱崎町が福岡市に編入されたのが1940(昭和15)年12月のことですから、15年地図時に於いてはここが市町境になっています。箱崎八幡
宮や九州帝国大学(九州大学)も医学部以外は福岡市外にあったといわれても、今となってはピンと来ません。そして、東公園は今でこそ県庁があり市
域の中心ですが、昭和15年時は本当に福岡市の東端ギリギリにあったことになります。

 馬出までは福岡営業所のバッジが出て来ますが、箱崎以北は箱崎営業所のバッジが出て来ます。福岡営業所管内からまずかたづけたく、箱崎営業
所の範囲が東にどこまであるのかは未知です。

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香椎
(005)

2020/03/01追
香椎は東区香椎1丁目から 同じく香椎1丁目
 糟屋郡香椎町と多々良町が福岡市に編入されるのは1955(昭和30)年のことですから、15年地図17年地図には域外で記載がありません。
昭和元年福岡市及び近郊実測図で見ると、民家は香椎宮の西に広がっていますが、これと矛盾しない地域から香椎のバッジが出てきました。

香椎高校・JR鹿児島本線・香椎線はほぼ変わっていないようですから、現在の西鉄貝塚線香椎宮前駅の周りに宿の町が、JR香椎駅前に濱男の町
があったようです(濱男神社は東区香椎駅前1丁目14番に)。元年実測図ではJR鹿児島本線は名島と香椎の間で海沿いを走っており、かなり埋め
立てられていることがわかります。

阿多田
(038)
阿多田は東区箱崎1丁目から  同じく箱崎1丁目
 15年地図5−ニ。

本馬場

本馬場町の掲示板は東区箱崎1丁目27番19号に
 15年地図には箱崎警察の西(上)に東本馬場が見えます(5−ニ)。

米山町
(040)
米山町は東区箱崎3丁目から 東区箱崎1丁目からも
 15年地図に記載なし。

2020/10/01追記
米山は宇佐殿(箱崎1丁目8)のことを指すようです。ただし、宇佐殿の北の筋からは阿多田が出てきましたので、さらに一本北の、現在の箱崎3丁
目と箱崎1丁目の境筋が米山町になるようです。

新楽町
(041)

新楽町は東区箱崎3丁目から
 米山町・新楽町共に15年地図にはない地名です。この地域も戦後急速に発達していったのでしょう。箱崎3丁目の米山町(南)と新楽町(北)は、
同じブロック(街区符号)の南北に背中合わせにあります。

宮前
(043)
宮前は東区箱崎1丁目から
 15年地図では箱崎宮の参道に西宮前と記されています(5−ニ)。 043宮前のバッジはその北(右)側、同地図でいう明治町あたりから見つかっ
ています。

上社家
(043)
上社家は東区箱崎1丁目から 同じく箱崎1丁目
 15年地図5−ニには社家町と下社家町として記載、社家町が上社家町に該当すると思われる。頭番は宮前と共通。

下社家
(045)
下社家も東区箱崎1丁目から
 15年地図5−ニ。

裏町
 社領三町の碑は、東区箱崎1丁目16番先、箱小通りに。上社家・下社家・裏町(上社家の東15年地図5−ニ)が箱崎宮の社領だったようです。 


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立花寺
(062)

2021/02/01追加
立花寺は博多区立花寺1丁目から 立花寺2丁目からも
 席田郡の内、立花寺と金隈は15年地図から漏れているので元年実測図で見るしかありませんが、山王社(日吉神社)・攝(摂)取寺の西に街が広
がっているのが見えます。

筑前國續風土記拾遺の記載によれば、同地に龍華寺(りゅうげじ)があったそうですが、天正(1573〜1593年)の兵火で焼失・廃されたとなってい
ます。秀吉の九州平定時、天正14年の岩屋城の戦いか、それに続く立花山城の戦いのいずれかに巻き込まれたのでしょう。

龍華寺には6子坊があり、今も立花寺にある摂取寺と法行寺はどちらも龍華寺の坊であったと記されています。
産神は日吉神社(拾遺の記載は山王社/立花寺2丁目8) 日吉神社境内の先代(と思われる)狛犬は愛おしい。

平尾
(065)

2020/11/01追加
平尾は博多区東平尾2丁目から 同じく東平尾2丁目
 15年地図13−ロ・ハ。同地図13−ニには現在の福岡空港内に平尾新屋の町も見えますが、筑前國續風土記拾遺の平尾村の欄には「民居壱處
(一処)にあり」とのことですので、平尾新屋は明治以降の新しい集落なのでしょう。そして1944(昭和19)年以降の席田(板付)飛行場開設・拡張で
町と田畑を接収されてしまい、短命の町だったのでしょう。

江戸時代の席田郡平尾村(博多区東平尾)は、1889(明治22)年の町村合併で席田郡席田村(一郡一村)大字平尾となります。那珂郡平尾村(中
央区平尾)は同年の合併で那珂郡八幡村大字平尾となっています。(1896<明治29>年に那珂郡・席田郡・御笠郡が合併し、両者とも筑紫郡。)

その後、1926(大正15)年に八幡村が先に福岡市に編入され、福岡市大字平尾となります。一方、席田村は1933(昭和8)年に福岡市に編入さ
れています。Wikipediaによると、この福岡市編入時に(後の中央区)平尾との混同を避けるために東平尾と改称したとなっていますが、15年地図
始めとする福岡市編入から数年経った後の地図だけではなく、戦後に貼られたはず(九電の発足が1951<昭和26>年)の九電バッジにも東平尾で
はなく平尾と記されています。

平尾は逆から見ると山口ですから、地名として付きやすい(その名から場所を特定しやすい)と言えるでしょう。
産神は牛頭天王八幡宮 (拾遺の記載は八幡宮 祇園神で寛永元<1624>年より相殿/博多区東平尾2丁目18)

雀居
雀居のNTT電柱表示は博多区東那珂2丁目から
 15年地図14−ニ・ホ。筑前國續風土記拾遺によれば、雀居(ささい)村は「むかしは平尾村の枝村なり」。

その後は他の席田郡席田村に属した地域と同じように、1933(昭和8)年に福岡市に編入されています。さらに住居表示時に博多区東那珂の一部
となりましたが、雀居という地名は消えたわけではなく、福岡市に現存しています。

   福岡空港内に博多区大字雀居

同じ席田村の平尾・下臼井から九電バッジが見つかっていますので、雀居にも貼られていたはずですが、残念ながら見つかりません。また雀居を福
岡営業所のページ内に貼り付けていましたが、旧席田村は箱崎営業所管轄で出て来ますので、こちらに移動しました。
産神は祇園宮(博多区東那珂2丁目5)

下臼井
(068)

2020/11/01追加
下臼井は博多区空港前3丁目から 同じく空港前3丁目
 15年地図10−ロ。下臼井が空港前1・2・3丁目に、上臼井が空港前4・5丁目と名前を変えたようですが、雀居と同じく両町名とも消えたわけでは
なく、福岡空港の敷地内に大字上臼井・下臼井が現存しています。



空港前2・3丁目と空港前4・5丁目は、下・上臼井のそれぞれ最東部ということになるのでしょう。下臼井の産神 老松神社(空港前3丁目17)と上
臼井の産神 寳満神社(空港前4丁目13)は同じ山(丘)の同じ斜面にあり、隣り合っているといってもいいほどの距離間です。15年地図を始めとす
る空港建設前の地図では、上臼井の寶満神社は現在地で確認できますが、下臼井の老松神社は掲載されていません。

しかし鳥居の銘などを見ると空港建設による移設ではなく、元々ここに鎮座されていたような感じ(ただし、福岡西方沖地震の被害を受けたようで、
全体的に新しい)ですから、本村が東の丘沿いにあり、現在の空港内は15年地図で見ると、田屋(筑前國續風土記拾遺には下臼井村の民居と記
載)と菰田(同じく拾遺には青木村の民居と記載)の町が見えますが、その他にはほぼ民家はなく田畑だったのでしょう。

上臼井に当たる博多区空港前4・5丁目及び青木からは、今のところ九電バッジを見つけられていません。
産神は上記

御野立所趾

2020/11/01追加
大元帥陛下駐蹕之處 後ろの木が大正天皇のお手植えか?
 15年地図10−ロに御野立所趾の記載があります。博多区空港前2丁目4の空港前1号緑地に、大正天皇が大正5年11月13日に陸軍大演習
の際に立ち寄られた旨の碑が建っています。現在は周りに民家が建ち並び、目の前には空港ターミナルが建っていることから眺望はありませんが、
小高い丘の北端になっており、往時は北は博多湾・西の筑紫平野・東には三郡山地と三方が見渡せたのかも知れません。

本筋と外れますが、この時の陸軍大演習のための九州行幸は福岡・佐賀に足跡が残っており、私が今思い浮かぶだけでも、糟屋郡粕屋町長者原
東6丁目には御野立所公園が、佐賀県鳥栖市の朝日山には御野立所碑が建っています。

また、鳥栖市曽根崎に建つ「聖駕駐蹕之地」碑の裏面には、この時の様子が記されています。現在のテーマである地名の件とはまったく関係なく、1
0年ほど前に書き写したものが残っていましたので紹介します。当時はまさかここにつながって来るとは思いもせず、白水淡関係で読んだものだった
はずです。

表面
裏面
 
聖駕駐蹕之地
 揮毫は陸軍大將男爵 神尾光臣 
 此丘呼曽根崎寶 今上皇帝行幸之處(処)也地屬(属)肥前國基里邦成 一小丘雖不大  
 肥筑之平野可以展望矣大正五年十一月行陸軍大演習於肥筑之野也車駕
 西幸親統監之廣島小倉二師團為北軍熊本久留米二師團南軍総兵五萬飛
 行機隊始参加○月十一日兩軍俶戰於○○○○郡之地是○往○鳥栖町北軍
 陣田代福堂高橋南軍陣石崎水屋安良○○○○露營爲翌十二日黎明○駕○
 鳥栖至基里村駐馬小學校庭少憩馬進登曽根崎之丘時方卯牌曙光朕照紅櫨
 况遠自筑後川右岸水屋宮陣神代邇及酒井八坂戰方酣而勝敗未決互相突撃
 而白刄将相交地演習斯終○幾乎午寔吾西肥未曽有之盛事也越六年丁巳五
 月基山田代基里三村勝地保存會建石於聖上駐馬之處使後傳子孫○甘○
 愛陰之誠佐賀縣曁三養基郡亦協力助資速落之請余銘之銘日

 肥山峨○ 筑水溶溶 ○○戦野 飛機鬪空 ○旗○○ 士気隆隆
 天顔有喜 望南觀東 維斯少丘 餘光無窮 陸里郷當 子孫盡忠

 大正六年六月 西肥後学 安永葵謹選

北軍の広島師団・小倉師団が田代(佐賀県鳥栖市)・福堂(福童/福岡県小郡市)・高橋(福岡県三井郡大刀洗町)のラインに、南軍は熊本師団・久
留米師団が石崎(福岡県久留米市北野町)・水屋(佐賀県鳥栖市)・安良(鳥栖市幸津町/御野立所碑が建つ朝日山の麓)の線に陣取り、総兵5万
人が集結したと書かれていますので、それは壮大な演習だったのでしょう。

また飛行機隊も参加したと書かれていますが、小郡市に建つ近代の縣界標の欄に書きましたように、太刀洗飛行場は大正8年の開設です。大正5
年時には所沢の航空大隊しかないはずですから、所沢からサルムソン2A2飛来したのでしょう。この時代の飛行機は、少し地面を踏み固めれば
空地のような滑走路で発着できましたが、この演習を踏まえて九州にも飛行場が必要ということになり、太刀洗飛行場の建設に至ったのでしょうか?

曽根崎に建つ碑には、演習が11月11・12日となっていますので、翌13日の帰路下臼井でお茶されたようです。

中央街
(074)
中央街は東区箱崎1丁目から 同じく箱崎1丁目から
 15年地図記載なし。箱崎町役場のあったあたりが後の中央街のようです。

馬場
(075)
馬場は東区箱崎2丁目から
 15年地図馬場本町は5−ニに記載がありますが、075馬場は箱崎2丁目から出てきており、それより若干西北でしょうか。



画像を回転させていますが、実際は片方の釘が外れて剥がれかかっています。このようなものもよく見かけます。

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 福岡営業所は福岡市内に留まっていますが、箱崎営業所はそのナンバーの振り方や、糟屋郡は炭鉱により町の発展が早かったことから、糟屋郡域
にも広がっているのではないかと感じていました。とりあえず志免町別府を見つけてしまい、どこまで広がっているのか楽しみでもあり、途方もない作業と
なりそうで少し怖くもあります。

別府1
(103)


別府1は糟屋郡志免町別府4丁目から
 15年地図には別府までギリギリ記載があり(10−イ)、志免村と書かれていますが、その前年昭和14(1933)年7月には町政移行していたよう
です。最新福岡市地図改定新版なので、市外についてはいいかげんなのでしょう。17年地図では福岡市外は描かれず真っ白になっています。

同地図では筑前参宮鐡道(後の勝田線)かみかめやま(上亀山)駅の北に街が広がっています。ここが現在の別府1丁目(上亀山駅跡公園を含む
南側)・別府4丁目(別府1丁目の北)になり、別府2丁目だけが県道68号線の南側にあります(別府3丁目は別府1・4丁目の西)。

別府1丁目からはバッジを見つけられていませんが、北側の別府4丁目が別府1、南側の別府2丁目が別府2で出てきていますので、別府1丁目は
別府1域だったと推測します。こう書くと九電バッジが貼られた時期から変わっていないように思いますが、別府が地番表示から住居表示になったの
は平成22(2010)年のことで、つい最近まで1丁目・2丁目ではなく100番地とか1500番地とかいう表記でした。

別府2
(103)
別府2は糟屋郡志免町別府2丁目から 同じく別府2丁目
 別府として15年地図10−イ。

別府3
(104)

2021/01/01追加
別府3は志免町別府西2丁目から 同じく別府西2丁目
 15年地図11−イに亀山炭鉱が見えますが、亀山八幡宮と象徴的な形をした斉藤池及びそれと連なる大正池(福岡市博多区青木2丁目)との位
置関係から、別府西1丁目の工業地域が該当するようです。大字別府のうち、宇美川の南側が現在は別府西1〜3丁目となったようですが、当該地
域からは別府3で出て来ます。

2枚が重ねて貼られてあるのも珍しいですが、モザイクで隠した番号は同じです。たぶん同一敷地内の外から見えない(九電が道路から確認できな
い)ところにもう一棟建物が建てられ、「00※」の後に「※−1」を追加したのでしょう。

別府3
(105)

2021/01/01追加
105別府3も志免町別府西2丁目から
 同じ別府西2丁目からでも、104は東寄り、105は西寄りから出て来ます。

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