現代の私は、上人橋通りと大正通りの間は警固1丁目と疑いませんが、 15年地図には同地北に 薬院原町、その南に東から薬院本町中溝通・薬
院本町塩入通と薬院の地名が見えます(8−ル)。
大正8(1919)年の 福岡博多市街地図を見ると、警固小学校の西を八反川が流れていますが、翌大正9年の 福岡博多及び郊外地図ではすでに道
路(後の大正通り)になっています。(大正9年時点では、後に国体道路となる東西の流れはまだあり、こちらは昭和12<1937>年 福岡市街案内図
まで、徐々に都市化しながら残っている。)
江戸時代の城下図「 福岡御城下絵図「梁橋ヨリ中島橋ニ至ル」(安永6年)を見ると、八反川の東側はすでに町割りされています。同絵図の香正寺
(中央区警固1丁目5番)と長圓寺(中央区今泉2丁目4番)の位置は変わっていないようように見えますので、その間の南北の筋が現在の上人橋通
りとなり、その北で八反川に架かる橋が上人橋です。(「 最新実測福岡市街全図」 明治41 <1908>年で上人橋の名が確認できる。)
筑前國續風土記拾遺によると「出口(岩戸口ともいう)」は薬院村の枝郷ですが、明治23年(1890)年 福岡市明細図で見ると、現在は今泉2丁目と
なる長圓寺の北に岩戸口の字が見え、ここまでが旧薬院村域だったようです。
同地図では原町筋は東西筋ですので、警固1丁目6番と15番の間の通りが、字中溝は香正寺の南側にありますので、中溝通は警固1丁目3番と4
番の間の南北筋が、塩入通は警固小学校東(警固1丁目6番と10番の間)の南北筋が該当するのでしょう。さらには長圓寺の北は大字薬院の字岩
戸口(今泉2丁目4番)、同寺の南は同じく大字薬院の字尾田(今泉2丁目2番・3番)となるようです。
警固1丁目が薬院ではなく警固の町名をもらったのは、明治22(1889年)の合併で薬院村が新制警固村となり、薬院小学校が警固尋常小学校と
改称され、同地にあったことが大きいのでしょう。(警固小学校が同地で地図に載るのは、明治42<1909>年の 福岡市街図里程附からで、同地図に
は警固小学校の隣りに新制警固村の村役場があったと描かれています。)
ちなみに、筑前國續風土記の福岡商家廿二町薬院町や同拾遺の那珂郡薬院村を読むと、薬院村は福岡城築城による町割りのために移転し、その
後が薬院町になったと書かれていますが、この薬院堀端・薬院町は 15年地図7−ヌ・ルに記載されています。
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