西新営業所


昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

地行枕
(001)

2020/08/01追加
地行枕は中央区今川1丁目から 同じく今川1丁目から
 枕町として15年地図5-カ。ここに枕町の記載があることは知っていましたが、明治通りの南側なので西町の字名だと思っていました。地行枕
(町)で出てきましたので慌てて地図を見直しますと、明治41(1908)年最新実測福岡市街全図には、明治通りはまだ当該地域まで伸びておらず、
鳥飼宮のラインまで地行域であると描かれています。(字一番町~字八番町を挟んで大きな文字で地行の表記がある。ただし、最終的に鳥飼宮の
神域を軌道<後の明治通り>が走ることになり、どこまでが地行域だったのかは、この地図だけではあいまいです。)

枕は頭の意味でしょうか。大正以前の地図には枕町の表記は見られません。

新大工
(002)
新大工は中央区黒門から  黒門6-16 黒門公民館に
 15年地図5-ワ。筑前國續風土記及び同拾遺には、新大工町は寛永15(1638)年に藩命によって作られた町で、初めは大工しか住んでいなか
ったと書かれています。ちなみに新ではない大工町は15年地図6-ルに記載があり、現在の昭和通り中央区大手門1丁目・2丁目辺りでしょうか。

黒門公民館は、常時は閉門されているのかもしれません。
産神は鳥飼八幡宮(中央区今川2丁目1)

東唐人
(006)
東唐人は中央区唐人町1丁目から 
 15年地図5-ワ。

中唐人
(007)
中唐人は中央区唐人町2丁目から 同じく唐人町2丁目  2020/03/01追加
 15年地図記載なし、17年地図4・5-ワあたり

北唐人
(008)
北唐人は中央区唐人町3丁目から 同じく唐人町3丁目 
 15年地図には北唐人としては記載なし。

海岸通
(008)

2020/03/01追加

海岸通は中央区唐人町3丁目から  
 ここ(15年地図4-ワ)に海岸通の地名があり、よかトピア通りの先 福浜は埋め立て地であることがわかります。頭番は北唐人と同じ。

木屋
(009)

2020/03/01追加

桝木屋は中央区唐人町2丁目から   
 15年地図4・5-ワ。桝木屋は未発見としていましたが、その後見つけました。唐人町3丁目3番の唐人町北公園に桝木屋(ますごや)跡の案内が
立っています。15年地図では桝木屋の南に浪人町が、明治通りの南、新大工の西に西唐人町が見えますが、どちらも見つかりません。

九電バッジの桝は異字体

地行1
(011)

2020/07/01追加
地行1は中央区地行4丁目から 同じく地行4丁目
 地行は15年地図4・5-ワ・カに、南北の筋に沿って東から西へ一番町・二番町~八番町の記載があります。現在は明治通りと菰川が交差する東
南角(唐人町西交差点)から、時計回りに1丁目~4丁目となっていますが、今でもNTTの電柱表示は、

    
 
15年地図の通りに南北の筋に、東から一番丁・二番丁となっています。すべての番号が揃っているわけではなく四~六番丁は見つかりませんが、
三番丁と七番丁域が広いので、これは単に電電公社(NTT)の電線(柱)管理の都合でしょう。

また、現在の地行1丁目と2丁目(同じく4丁目と3丁目)は、明治通り 地行の交差点(鳥飼八幡宮角)とよかトピア通り 地行3丁目交差点(韓国総
領事館角)を南北に結ぶ道で区切られていますが、七番丁の電柱表示は1丁目(4丁目)からも2丁目(3丁目)からも出てきます。15年地図5-カを
見ると、確かにその鳥飼八幡宮東角の通りに七番町が見えます。(この時代は道路で囲まれたブロックではなく、道路に地名・丁目が付いていた。)

筑前國續風土記拾遺には鳥飼村の民居として地行の字があります。

地行3
(012)

2020/07/01追加
地行3は中央区地行4丁目から 中央区地行1丁目からも
 011地行1で書きました通り、一番町・二番町は南北の筋に沿っていますので、現在の地行1丁目からも4丁目からも同じ地行3が出てきます。

地行4
(012)

2020/07/01追加
地行4は中央区地行1丁目から     同じく地行1丁目
 頭番は地行3と一緒。地行1と地行5は地行4丁目側から、地行4は地行1丁目側からしかそれぞれ見つけられていませんが、それはたまたまだと
思っています。

地行5
(013)

2020/07/01追加
地行5は中央区地行4丁目から 同じく地行4丁目から
 

地行8
(014)

2020/07/01追加
 地行8は中央区地行2丁目から 中央区地行3丁目からも
 15年地図5-カで見ますと地行八番町も南北の筋ですが、大正3年最新実測福岡市街全図で見ると八番町に該当する南北の筋はまだなく、東西
の筋が八番町になっています。

地行からは011地行1~014地行8の他に、028地行西も見つかっています。さらに001地行枕も見つけています。

城西町
(017)
城西町は早良区城西2丁目から 
 15年地図6-ヨ。

西ヶ崎
(017)

2020/09/01追加
西ヶ崎は早良区城西2丁目から
 15年地図6-ヨ。頭番は城西町と同じ。城西2丁目の東側からは城西で、同丁目の西側からは西ヶ崎で出てきました。15年地図で見ると、七隈
川沿いの通りが城西町、城西2丁目の交差点と早良市民プールを結ぶ通り上に二百石町、その一本西が西ヶ崎町のようですが、017城西は城西2
丁目の交差点の筋よりも西から見つかっています。九電バッジが貼られた時期には二百石町はもうなく、城西町に統合されていたのかもしれませ
ん。

上今川橋通
(018)

2020/09/01追加
上今川橋は早良区城西1丁目から
 15年地図6-カ・ヨ。樋井川の城南線に架かる城西橋の、一本下流(北)の橋が上今川橋です。上今川橋と城南線 城西1丁目の交差点を結ぶ
通りは現在、北が西新1丁目・南が城西1丁目になっていますが、当時は通りの両側が上今川橋通だったのでしょう。

城西橋通
(018)

2020/09/01追加
城西橋通は早良区城西1丁目から      早良区城西2丁目からも
 15年地図5・6-ヨに城西橋通2丁目の記載。同地図では現在の城南線 西新4丁目交差点あたりに、城南線に沿って城西橋通2丁目の記載が
ありますが、同1丁目は記載がありません。城西橋から西へ、城南線の両側に城西橋通があったのでしょう。城南線北の城西1丁目からも、同南の
城西2丁目からも城西橋通が出てきました。

頭番は上今川橋通と同じ018。上今川橋通はその西端が城西橋通と交差して終わる形のようです。(城南線の西は西新町中田町 15年地図5・6
-ヨ。)

福岡西2
(019)

2020/07/01追加
福岡西2は中央区今川2丁目から  同じく今川2丁目
 020福岡西1で書きましたように15年地図には鳥飼八幡宮の参道前の道に、東は菰川から西は樋井川に掛けて西町があります。福岡西1は今
川1丁目から出てきましたが、今川2丁目からは019・020福岡西2及び019福岡西3が出てきました。

この3つの使い分けがよくわかりませんが、福岡西3がより明治通りに近い北側に、福岡西2は明治通り一本南の15年地図に西町の記載がある通
り(西町筋)上にあるような気がします。019福岡西2と020福岡西2は同じ街区符号(番)内の数軒先のお宅でも変わっていますので、単に番号枯
渇で福岡西1用の020を流用しただけなのかもしれません。

福岡西3
(019)

2020/07/01追加
福岡西3も中央区今川2丁目から  黄色バッジ04と一緒に 同じく今川2丁目
 頭番は019福岡西2と一緒。019福岡西2で書きましたように、福岡西3は明治通り側。

福岡西1
(020)

2020/04/01追加
福岡西1は中央区今川1丁目から
 111城南町や114鳥飼3の一枚、さらには黄色バッジは営業所欄が福岡西で出てきており、西新営業所が福岡西営業所だった時代があったよう
ですが、これはそれらとは違い地名欄が福岡西となっています。現場ではその福岡西という表記がちょっと理解が出来ず、帰宅後に15年地図を検
討したら、鳥飼八幡宮南の通り(5-カ)に西町が見えます。(ちょうど折れ目があるので、17年地図の方が見やすい。)

西新営業所管内に他に西町があったので前に町名(大字)をつける必要があったが、西町は大字鳥飼(鳥飼村)域ではなく福岡区(福岡商家22町
の一つ)だったため、福岡西という表記になったのでしょう。(九電バッジが貼られた時代には、さすがに福岡区という区分はもうなかったでしょうが。)
産神は鳥飼八幡宮(中央区今川2丁目1)

福岡西2
(020)

2020/07/01追加
020福岡西2も中央区今川2丁目から     同じく今川2丁目
 頭番は福岡西1と同じ。

百道
(022)

2020/04/01追加
百道は早良区西新2丁目から  同じく西新2丁目
 15年地図5-ヨ。002-068はまさに建物を解体中に見つけました。すでにこの世にはない建物ですからモザイクを掛けていません。
解体業者の方に話をして立ち入らせてもらい、廃棄されるものということで譲っていただき、このバッジは現在私の手元にあります。

現在の西新2・3丁目の明治通り側(南)が西新2となり、よかトピア通り側(北)が百道となるようです(現在は西新の西に百道がある)。この地域に
は西新022文字不明のバッジと黄色バッジ福岡西05が共に貼ってあるお宅もありました。

 地行西
(028)

2020/07/01追加
地行西は中央区地行3丁目から   
 15年地図記載なし。大正3年最新実測福岡市街全図には八番丁の南に地行西町が見えますが、地行西のバッジを発見したのは地行8の北、よ
かトピア通りに近いところからでした。現在はよかトピア通りの先に地行浜があり地行は海には面していませんが、この地行西が出てきたあたりは車
が通れない路地が張り巡らされており、漁村だなと感じます。

地行浜の地名を出したのでついでに書きますと、現在はよかトピア通りの北側の埋め立て地が地行浜という地名ですが、15年地図(5-カ)を見る
と鳥飼八幡宮の北 明治通りに地行浜の停車場があったようです。

荒江
(031)

2020/10/01追加
荒江は城南区荒江1丁目から 同じく荒江1丁目
 15年地図7-ヨ・タ。逢坂は福岡西048で。
 産神は櫛田神社(元禄年間に野芥より勧進/城南区荒江1丁目13)

飯倉
(033)

2020/10/01追加
福岡西033飯倉は早良区飯倉2丁目から 早良区飯倉4丁目からも
 15年地図8・9-レ。筑前國續風土記拾遺には飯倉村の民居に、本村・・唐木(発見していますが未編集)が記されています。
 産神は飯倉神社(拾遺の記載は天満宮/早良区飯倉2丁目16)

曙町
(036)

2020/11/01追加
曙町は早良区曙1丁目から 早良区城西3丁目からも
 15年地図記載なし。曙1丁目から曙町を見つけ、15年地図に記載はないものの当然のだと思っていましたが、城西3丁目からも曙町、さらには城
西3丁目からは040曙も見つかりました。15年地図を見ると、今川新町・同二丁目が036曙町・040曙に該当するのではと考えています。

塵埃燒却場が現在の早良市民プールでしょう。
 
弓ノ馬場
(038)
2020/08/01追加
弓ノ馬場は城南区別府5丁目から 同じく別府5丁目から
 15年地図8-ヨ 福岡學園(福岡学園は那珂川市に移転して現在は中村学園)の西には弓ノ馬場一~三丁目が載っています。別府郷土史研究
(別府公民館/昭和55年)では、弓ノ馬場一~三丁目は昭和6年以前は字西田だったとなっていますが、西田は大字鳥飼(鳥飼村)の字です。

一方、同地図には町名の弓ノ馬場一~三丁目とは別に字名(赤文字)の犬馬場が見えます。

筑前國續風土記拾遺には、七隈村の欄に「高樹公(長政)の馬術調練所跡と伝わる犬馬場」(同村の民居としては犬ノ馬場とも)が書かれています。
また田嶋村の欄にも犬ノ馬場に民居が数軒あったと書かれています。

鳥飼村・田島村・七隈村の境も今となっては判然としませんが、別府郷土史研究には別府6丁目には大字七隈・田島域、別府7丁目は大字田島域と
なっています。

別府6丁目の西が七隈村の字犬馬場・同じく別府6丁目の東から7丁目に掛けてが田島村の字犬ノ馬場に該当するのでしょう。そうすると茶山6丁
目(の少なくとも一部)は七隈域でないと、別府6丁目の七隈村犬馬場が飛び地になるのではと考えていましたが、将軍地蔵(弓の馬場・茶山会館/
城南区茶山6丁目1)の地番表示時代の住所は、大字七隈弓の馬場だったようです。

犬馬場・犬ノ馬場の読みですが、筑前國續風土記「犬馬場村 七隈村の内」には「いぬの」とルビが振られていますので、少なくとも江戸中期は「いぬ
のばば」だったようです。

弓ノ馬場の国道202号別府橋通りを挟む北側には西田町が見えます。現在の別府4丁目が該当するようですが、痕跡は見つけられていません。


(040)

2020/11/01追加
曙は早良区城西3丁目から
 15年地図記載なし。036曙町で書きました通り、15年地図の今川新町に該当すると考えています。036曙と040曙町は同じ通り上に乗っている
と考えてよく、同じ町をあらわすものでしょう。123塩屋の欄で塩屋が後に塩屋町と表記されるようになったのではと書きましたが、曙町(036)より
曙(040)の方が頭番は後ろになっています。036が空き番だったので後から使った等考えられますが、実際のところはわかりません。

西新2
(045)

2020/04/01追加
西新2は早良区西新2丁目から    同じく西新2丁目
 15年地図5-ヨ。西新022百道の欄でも書きましたが、現在の西新2・3丁目の明治通り側(南)が西新2となり、よかトピア通り側(北)が百道とな
るようです。どちらも西新2丁目から見つかったバッジを貼っていますが、西新3丁目からも同じ頭番045で西新2が見つかっています。

筑前國續風土記拾遺の西新町村の欄には「一番町 二番町 濵ノ町 東枕町 西枕町すべて五町となれり。この五町をすべて新屋敷いう。また片原
町の北を拓いて(中略)これを新地という。」と書かれていますが、明治23年福岡市明細図にはこれらの地名がすべて載っています。

荒江
福岡西048)

2020/10/01追加
福岡西048荒江は城南区荒江1丁目から
 15年地図8-タを見ると、荒江の南側には逢坂の地名が見えます。筑前國續風土記拾遺の荒江村の欄には「民居は本村 大阪にあり」と記され
ています。

現在の城南区荒江1丁目の別府橋通よりも南側が逢坂に該当するのではと探しましたが、該当地域からは同じ荒江1丁目でも031荒江とは違う福
岡西048の荒江が出てきました。福岡西048飯倉の欄に書きましたが、福岡西048荒江は荒江逢坂を指しているのではないかと考えています。



荒江逢坂の交差点は、国道263号城南区荒江1丁目と同区飯倉一丁目の境に。

飯倉
福岡西048)

2020/10/01追加
福岡西048飯倉は早良区飯倉5丁目から 同じく飯倉5丁目から 2021/02/01追加
 15年地図8・9-レ。同地図を見ると、現在の国道263号 飯倉2丁目交差点を中心に飯倉の街が広がっていたようですが、国道263号の西側
からは福岡西033飯倉で、国道263号の東からは逢坂に該当する荒江と同じ、福岡西048の飯倉で出てきました。

2021/02/01 15年地図9-レには飯倉原の字が見えます。筑前國續風土記拾遺には、飯倉村の民居として本村・原・唐木の記載があり、原
は「往来の道を隔てて西は飯倉村に属し 東は七隈村に属す」と書かれています。国道263号の一本東、七隈1丁目南交差点と西南の杜湖畔公園
西交差点を結ぶ尾根道は、現在でも東が七隈、西が飯倉から干隈と町境の道になっており、拾遺に言う往来の道がこれに当たり、原(飯倉原)はこ
の尾根を中心に飯倉・七隈両域に広がっていたようです。

15年地図の飯倉原と唐木(9-ソ)の間に見える池((9-レ)が現在の丸尾池公園のようで、その南を福岡市(飯倉・七隈)と早良郡田隈村(干隈)の
郡市境(― ・ ・ ―)が走っています。(田隈村が福岡市に編入するのは昭和29<1954>年。)

 丸尾池公園は早良区飯倉6丁目15

15年地図に描かれた、飯倉の街中から飯倉原の北を通り茶山に至る道は、現在の国道263号飯倉2丁目交差点と城南学園通り茶山交差点を結
ぶ道に該当しそうですが、その峠は現在よりも南に弓反っていますので、同地図に於ける飯倉原の北端は、七隈1丁目交差点よりも若干南になるの
でしょう。(飯倉5丁目3と14の間を南に折れ、飯倉5丁目4と5・七隈2丁目18と19の間を通る道だと考えています。)

七隈1丁目交差点から干隈までの尾根(飯倉・七隈境)道を中心に、飯倉原のバッジがあるのではないかと探しましたが、飯倉5丁目の尾根(往来の
道)に近いところからも福岡西048飯倉のバッジが出てきます。

ピンポイントで尾根道沿いのお宅から福岡西048飯倉が出てくれば、福岡西048飯倉が飯倉原を指していると断定できるのですが、今のところは
福岡西048の一桁台が荒江逢坂、200番台が飯倉原を指している可能性が高いと考えていますという表現にとどめます。

 飯倉原のNTT電柱表示は早良区飯倉5丁目から(飯倉原域と思われる)。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

防塁
(051)

防塁は早良区西新7丁目から
 15年地図には地名としての防塁は記載がありませんが、防前電停は載っています(5-タ)。地名として防塁があったのかは未確認です。

中西
(052)

2020/11/01追加
中西は早良区西新5丁目から 同じく西新5丁目
 15年地図では西新町三丁目あたりに該当し、中西の記載はありません。一方で、中西商店街(早良区西新5丁目)に現在も名を残しています。明
治41(1908)年最新実測福岡市街全図までさかのぼると、該当の場所に字中西が見えます。

なんとなく中西を「中西新」の意味だと思ってきましたが、同地図を見ると字中西の東には字中東があります。どうやら中という字の東西なのでしょう。
中西が修猷館中学の南、中東は中西の東かつ移転前の紅葉宮の西ですので、現在の西新4丁目あたりでしょうか。

西新町下田町

2021/01/01追加






 15年地図で見ると、現在の国道263号(早良街道)上に麁原一番丁・同二番丁が見えます(その西に三・四番丁が続く)。麁原一番丁の北には西
新町下田町が見えますが、現在は下田公園が早良区城西3丁目21にあり、西は現在の福岡大学西新病院から、法務局西新出張所交差点を越え
て城西3丁目21番前の東西の筋が西新町下田町に該当しそうです。そうすると、福岡大学西新病院が池だったのでしょう。

麁原
(057)

2020/12/01追加

五穀神碑は祖原公園(早良区昭代1丁目7番)に
麁原は早良区祖原から
 15年地図6-タ。現在の祖原は丁目のない小さな街です。といいたいところですが30番まであり、2丁に分けてもいいほどの規模です。

筑前國續風土記拾遺には、麁原村の産神は村の南タウの山にある十六天神社であると書かれています。大正9(1920)年福岡博多及郊外地図
元年実測図を見ると麁原の街の南外れ、麁原山の北東斜面に鳥居マークが見えます。たぶん、祖原公園の五穀神の石碑がある場所が十六天神
社跡なのでしょう。

この五穀神の碑には明治12年の裏銘が入っています。五穀神碑は福岡に於いて時々目にしますが、元々十六天神の境内に五穀神碑もあったの
か、五穀神碑は別の場所に建っていたものが、道路拡張等でここに持ってこられたのかはわかりません。現在の祖原はマンションや一戸建てが建
ち並ぶ副都心西新に隣接の住宅街ですが、江戸・明治期は五穀の神を敬う、農業に適した麁原だったのでしょう。

昭代東部
(059)

2020/12/01追加
昭代東部は早良区昭代1丁目から 早良区曙2丁目からも
 昭代町一~四丁目は15年地図6-タに記載があります。同地図の昭代町一丁目は麁原山(現祖原公園)の西側に見えますが、昭代東部は祖原
公園の東側及び国道263号のを挟んだ早良区曙2丁目から出てきました。この当時は道路で囲まれたブロックではなく、道路に町名が付いていまし
たので、国道263号を挟む両側が昭代東部だったのでしょう。

昭代中部
(不明)

2020/12/01追加
昭代中部は早良区昭代1丁目から
 昭代東部は国道263号沿いから出てきましたが、昭代中部はその一本西側のブロック(番)から出てきています。頭番不明ですが、昭代東部の0
59・昭代西部の060のどちらかと共用しているはずです。

昭代西部
(060)

2020/12/01追加
昭代西部は早良区昭代2丁目から 早良区昭代1丁目からも
 昭代西部になってやっと今の昭代1丁目の西から昭代2丁目の東端です。15年地図に昭代町四丁目まで記載がある割には、現在の昭代2丁目
の高取小学校の西側及び昭代3丁目からは九電バッジを見つけられていません。ここがすべて昭代西部に該当するとも思えず、そこに他の地名が
ないのならば街が東に偏っているような気がしています。

百道本通西
(061)

2020/06/01追加
百道本通西は早良区百道1丁目から
 百道は15年地図5-ヨ。百道本通が西新小学校南(百道小北)の通りなのか、西新小北(百道中南)の通りなのか、その間からこのバッジは出て
きており今のところ分かりません。百道本通東が見つかればよいのですが。

生1
(063)

2021/01/01追加
弥生1は早良区百道2丁目から 同じく百道2丁目
 彌生町一丁目として15年地図5-タに。同地図では彌生町一丁目の東に刑務所が載っていますが、猿田彦神社と思われる鳥居マークの正面に
見えますし、刑務所と金屑川の間に彌生町一丁目がある(現在はほぼ金屑川に沿って福岡拘置所がある)ことから、同地図の刑務所は今の福岡拘
置所よりも若干東にあったようです。

Wikipediaの記載ならば、百道1丁目の西福岡税務署の北側になりますが、それですと15年地図では千眼寺の上になりますので、もう一ブロック東に
なければいけません。あるいは大正5(1916)年に最初に同地に建った福岡監獄がWikipediaのいう早良区百道1丁目で、15年地図当時は市立も
もち体育館や県立ももち文化センターあたりりにあり、さらに現在はもう少し西にずれたのでしょうか。

現在の百道・藤崎の繁栄を考えると、こんな街中に巨大な刑事施設があるのかと思いますが、移転するにしても候補先の反対に遭い、今となっては
どこにも動かせないのでしょう。

九電バッジの「弥」の「尓」の上が「ム」なのですが、それは私のパソコンでは出せない文字でした。

弥生2
(065)

2021/01/01追加
弥生2は早良区弥生1丁目から
 15年地図では現在の原通り上に彌生町二丁目・三丁目が見えます(この時代は道路で囲まれたブロックではなく、通りに町名が付いていた)。彌
生三丁目でも涼橋の北ですので、現在の弥生1丁目(全域)・藤崎1丁目(の原通り沿い)になるのでしょう。

弥生2のバッジが見つかった場所が15年地図にいう彌生三丁目域ですので、弥生3のバッジは存在しないようです。

藤崎
(067)

2021/02/01追加
藤崎は早良区藤崎1丁目から 同じく藤崎1丁目 黄色バッジ福岡西08と一緒に
 15年地図5-タに藤崎町一丁目・同二丁目として。同地図が示す藤崎町一丁目は、庄橋につながる筋ですので、現在の藤崎1丁目2と3の間の
筋、同二丁目が同じく藤崎1丁目3と同4・5の間の筋のようですから、藤崎町一・二丁目とも現在の藤崎1丁目域です。現在の藤崎2丁目からは、未
編集ですが別の町名で出てきています。

筑前國續風土記(元禄16<1703>年)には「麁原村の内 藤崎村」と書かれています。また、福岡県立図書館が公開している筑前国郡絵図 早
良郡にも麁原村の内 藤崎村の掲載があります。郡絵図は年代不詳ですが、私は黒田新続家譜の筑後境論地決定の中で、(上座郡の)絵図は元
禄14年以前のものであると書いています。拾遺(天保8<1837>年頃)では麁原村の欄に「民居は本村 藤崎 皿山にあり」と村内の字になってい
ます。

西新本5北
(068)
西新本5北は早良区百道1丁目から 同じく百道1丁目
 15年地図は時々理解できないのですが、現在の西新商店街に西新町一丁目~五丁目が記されています(5-カ・ヨ~4-タ)が、明治通りの北側
にも唐突に四~六丁目の記載があります。西新本5北は千眼寺(千眼禅寺 早良区百道1丁目3-6/15年地図5-タ)のさらに北側から出てき
ており、この明治通り北に書かれた五丁目と西新本5北は矛盾しないと感じています。

皿山
(071)

2020/03/01追加
皿山は早良区高取2丁目から 
 15年地図5-タ。筑前國續風土記拾遺には、皿山は麁原村の枝村で、独自の産神である稲荷社を持っているとなっています。西新町の産神であ
る紅葉八幡宮がある山は現在は紅葉山(公園)という名前ですが、紅葉八幡宮が大正2(1913)年に移転してくるまでは、この山が皿山だったので
しょう。

大正3(1920)年最新実測福岡市街全図で見ると、紅葉宮はまだ軌道(路面電車/現在の明治通り)の南側に書かれています。現在の明治通り上
からその南側、西新1丁目辺りにあったようです。同地図では修猷館中學は軌道の北に書かれていますし、金龍寺(明治通り南)と浄満寺・真福寺
(明治通り北)の位置関係も変わっていないので、ほぼ道筋は変わっていないように見えます(ただし、明治通りは黒門までしか繋がっていない)。鳥
飼神社や大通寺・金龍寺の敷地内を軌道が走っていますので、明治通り延伸の際に道の南側を広げ、その境内・寺域を削られているのでしょうか。

皿山の産土である稲荷社は、紅葉八幡宮内にある宇賀稲荷神社でしょうか。

西新5
(071)

2020/03/01追加
西新5は早良区高取2丁目  同じく高取2丁目  
 15年地図5-タ、頭番は皿山・西新5・弓田の3町で共通。高取2丁目5に五丁目会館(公民館)がありますが、西新5丁目を指しているのでしょう。

紅葉
(073)

2021/02/01追加
 紅葉は早良区昭代2丁目から 黄色バッジ06と一緒に 同じく昭代2丁目
 15年地図6-タに紅葉町一丁目・二丁目・三丁目として。現在の高取1丁目交差点と高取2丁目交差点の間(北は高取1・2丁目・南は昭代2・3丁
目)の筋沿いに紅葉町があり、昭代2丁目から紅葉で出てきました。高取側からは見つけられていません。

紅葉八幡宮は大正2年に移転してきていますが、大正3(1914)年最新実測福岡市街全図ではまだ移転前の西新1丁目で載っています。大正5
年・8年の地図では域外で、大正9(1920)年福岡博多郊外地図になって現在の場所になります。紅葉は紅葉八幡宮移転以降の地名でしょうか。

弓田
(075)

2020/03/01追加
弓田は早良区高取1丁目から
 15年地図記載なし。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

大濠
(106)
大濠は中央区大濠2丁目から  同じく大濠2丁目
 15年地図6-ワ。

浜田
(108)

108浜田は中央区草香江1丁目から
 108浜田が15年地図の浜田町一丁目(7-ワ)、109浜田は浜田町三丁目(7-カ)、110浜田が浜田町二丁目(6-ヨ)に該当するようです。

浜田
(109)
109浜田は中央区草香江2丁目から 中央区鳥飼1丁目からも (鳥飼1~3丁目は中央区)
 

浜田
(110)
110浜田は中央区草香江1丁目から 同じく草香江1丁目から
 

城南町
福岡西111)


福岡西111城南町は中央区六本松2丁目から
 このあたりがちょうど境目なので、「福岡営業所」と「西新営業所」のどちらが出てくるかと思ったら、そのどちらとも違う「福岡西」のバッジを目にし、
我が目を疑うというか、一瞬事態を飲みこめませんでした。

黄色バッジには「福岡西」がありますので、福岡西営業所が後に西新営業所に改称した可能性があります。住居表示後は福岡営業所管内の
六本松に飲みこまれたが、城南町は六本松とは管轄も違う別の町だったことがわかります(15年地図7-ワ)。

鳥飼1
(113)

2020/04/01追加
鳥飼1は中央区今川1丁目から
 15年地図で見ると、現在の明治通りの一本南(鳥飼神社参道前の道=西町の筋)から南に向かい鳥飼一丁目~四丁目が広がっていますが、女
子師範(現在の南当仁小学校)の西にはそれとは別に鳥飼本町が四丁目まであります。さらに女子師範の南に鳥飼五丁目が、城南線の南に六丁
目が見えます(5・6-カ)。

筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 別府 大鋸谷(茶圓谷) 荒戸 地行等所々に散在する」となっていますので、今考えても大きな村です。
産神は鳥飼八幡宮(拾遺の記載は西町若八幡/中央区今川2丁目1)

鳥飼2
(113)

2020/04/01追加

鳥飼2も中央区今川1丁目
 頭番は鳥飼1と共通。現在の今川1丁目のより南(鳥飼1の南)側。

鳥飼3
(114)
鳥飼3は中央区今川2丁目から 同じく今川2丁目 2020/07/01追加
 新たに0*7を見つけたのですが、同じ街区符号(番)の東西の筋(西町筋)に019福岡西、樋井川沿いの南北の筋からは鳥飼3が出てきました。
私の認識では明治通りの南に、北から西町・鳥飼一丁・二丁・三丁の順だと思っていましたので、福岡西(西町)と鳥飼3が同じ街区符号(番)にある
ことを不思議に思いながら帰宅しました。

帰宅後に15年地図5・6-カを検討しますと、西町の筋は菰川から樋井川までつながっていますが、鳥飼一丁目と二丁目の筋は鳥飼八幡宮までし
かありません(それは今も変わりません)。そして鳥飼三丁目はまた、菰川から樋井川まで筋がつながっています。この時代は通りに囲まれたブロッ
クではなく通りに町名(丁目)がついており、西町と鳥飼三丁目は現在の今川1~2丁目いっぱいに広がり、鳥飼一丁目・同二丁目は今川1丁目域に
とどまっていたようです。 

鳥飼3
福岡西114)

2020/04/01追加


福岡西114鳥飼3は中央区今川1丁目から
 111城南町でもあった福岡西営業所名義です。福岡西営業所が西新営業所になったと推測していますが、西新114鳥飼3と見比べても確実にど
ちらが古いとは言えません。

2020/06/01 中央区鳥飼1丁目からと誤記していました。正しくは今川1丁目からです。

鳥飼本
(118)

2020/07/01追加
118鳥飼本は中央区鳥飼3丁目から 黄色バッジ03とともに  同じく鳥飼3丁目から
 先に119鳥飼本を鳥飼2丁目から見つけていましたが、118鳥飼本が鳥飼3丁目から見つかりました。

15年地図では女子師範(現南当仁小学校)の西に鳥飼本町・二~四丁と並んでいます(6-カ)。119は鳥飼2丁目の西端から見つかっていますの
で、鳥飼本町二丁に、118鳥飼本は現在の鳥飼3丁目からですが、左の0※9-1は城南線 鳥飼3丁目の交差点と今川2丁目の交差点を結ぶ南
北の通りの東側から、右の1※7は同南北の通りと樋井川の間から見つかっていますので、それぞれ鳥飼本町三丁と同四丁に該当するのでしょう。

鳥飼本
(119)
119鳥飼本は中央区鳥飼2丁目から
 

鳥飼5
(119)
119鳥飼5は中央区鳥飼1丁目から 同じく鳥飼1丁目
 頭番は鳥飼本と共通。鳥飼5は現在の鳥飼1丁目のより北(城南線)側。樋井川側は鳥飼6。

鳥飼5
(120)
120鳥飼5は城南線の北側 中央区鳥飼3丁目から 同じく鳥飼3丁目
 現在は城南線で鳥飼3丁目(城南線の北)と鳥飼1丁目(城南線の南)が区切られていますが、この時代は通りに町名(丁目)が付いており、城南
線のどちらからも鳥飼5が出てきます。

鳥飼6
(120)
120鳥飼6は中央区鳥飼1丁目から
 頭番は鳥飼3丁目の鳥飼5と共通の120。鳥飼6は現在の鳥飼1丁目のより南(樋井川)側。

シール跡があり数字は一部しか読めませんが、120で間違いないでしょう。ちなみにこのシールには九電のロゴがあり九電によって貼られたようで
すので、シールを貼った時期に管理方法が変わり、番号(契約章)が無効になったのでしょう。

 九電マークが入ったシールを貼られた鳥飼5。

塩屋
(121)
121塩屋は城南区鳥飼6丁目から 同じく城南区鳥飼6丁目
 15年地図では、現在の城南区鳥飼4~7丁目は、大字鳥飼の塩屋や中浜という地名だったようです。(6・7-カ)

現在は南北で鳥飼4丁目・6丁目と別れていますが、この当時は東西で塩屋一丁目・二丁目だったようで、現在の鳥飼4丁目・6丁目共に、東側が塩
屋一丁目で真ん中の縦列が塩屋二丁目となるようですが、その割には、鳥飼4丁目側が123・鳥飼6丁目側が121と頭番は東西ではなく南北で分
かれています。

夕陽ヶ丘
(122)

2020/04/01追加
夕陽ヶ丘は中央区笹丘2丁目から
 夕陽ヶ丘は初めて聞く地名です。〇〇ヶ丘は高度成長期に一山を切り開いて造成した時に付けられた地名(屋形原 桜ヶ丘は昭和初期の開拓)で
しょうから、15年地図には山があるばかりで地名の記載はありません。

大字鳥飼の121塩屋と123塩屋の間に急に笹丘が割り込んだのは不思議ですが、単純に塩屋の発展を見越して122をキープしていたが、後に各
地で開発が進み空いている番号を当てていったのでしょうか。

塩屋
(123)

123塩屋は城南区鳥飼4丁目から
 123塩屋と123塩屋町は、単純に貼られた時期が違い、塩屋が後期には塩屋町と表記するようになったのでしょうか。数が少ないので確定的なこ
とは言えませんが、123塩屋は2桁で、123塩屋町は両方とも200番台です。

塩屋町
(123)
123塩屋町も城南区鳥飼4丁目から 同じく鳥飼4丁目から

梅光園
(124)
梅光園は中央区梅光園2丁目から 同じく中央区梅光園2丁目から
 梅光園は江戸時代の資料には聞かない地名ですので、戦後の造名かと思っていましたが、昭和9年最新福岡市街及郊外地図には記載がなく、翌
年の昭和10年福岡市街地図名所案内に忽然にかつ整然と現れます。

梅光園の地名の由来について調べたところ、web上にもほとんど情報がありませんが、開発に携わった溝口梅太郎と光子夫人から一文字ずつ取っ
たという記述をどこかで見た記憶があります。(今その資料を見つけることが出来ません。)

溝口梅太郎が西南学院高等学校を退職(1933/昭和8年)し、福岡商業高等学校(現在の福岡大学)を創立したのが1934(昭和9)年と、まさに梅
光園が地図に登場する時期です。梅太郎は私財をなげうち、個人で借金をして福岡商業高等学校を設立していますから、はたして宅地開発まで
している余裕があったのでしょうか。

学校設立・運営資金の足しにするために、借金ついでに土地を買い開発したということもあるのかもしれませんが、それならば「さすが経済の先生、
自ら資金の獲得を実践した」と逸話になっていそうな気もします。

草ヶ江
(126)
126草ヶ江は中央区草香江2丁目から
 現在は中央区草香江という地名表記ですし、15年地図でも草香江町と記されています。ただし同地図には「草ヶ江校」という表記もあり、この時か
らの伝統なのでしょう、現在も草ヶ江小学校と表記されます。(7-カ)

私の感覚でも現在の草香江1・2丁目が草香江ですが、15年地図では鳥飼駅の南(現在の別府3丁目あたりか)に草ヶ江本町が見えます(7・8-
ヨ)。 2020/03/01追記 その後別府2丁目で131草ヶ江本を見つけています。

中央区草香江2丁目と城南区鳥飼5丁目は樋井川の東西岸になり現在では区も違いますが、この当時は当然区という考え方はありませんでしたの
で、草ヶ江と別府北が同じ頭番126で違和感はなかったのでしょう。

別府北
(126)

別府北は城南区鳥飼5丁目から 
 15年地図7-カ、頭番は126草ヶ江と共通。

 ここから回転させ切り出しています。見にくいのはご容赦ください。

草ヶ江
(127)



127草ヶ江も中央区草香江2丁目から
 同じ草香江2丁目でも126草香江に比べてより南に位置するお宅から出て来ました。このお宅からは東邦電力の電燈番號章も出ており、戦前に
建てられたより古い建物と考えられることから、126の番号枯渇で127を使ったわけではなく、126と127を場所(南北)で使い分けたのでしょう。

不明
(129)

2020/08/01追加
129不明は城南区別府1丁目から はす向かいのお宅には別府町2丁目の表札
 15年地図7・8-カ・ヨを見ますと、樋井川の西岸かつ筑肥線鳥飼駅(現城南区役所)の南側には、東から別府町一丁目・二丁目・三丁目、別府新
町一丁目・二丁目・三丁目、草ヶ江本町一丁目・二丁目・(別府橋通りの北に三丁目以降)と並んでいます。

129はリフォームされて玄関枠の下敷きになっており町名を読むことができませんが、130別府新が別府2丁目から出てきていることから、またこ
のお宅のはす向かいのお宅には「別府町2丁目」の表札が貼られていることから、「別府(2)」と強く推測しています。

ちなみにこの表札は、福岡市内いたるところに同じものがありますので、郵便局のノベルティのようなものでしょうか。戦後、住宅が建て込みだしたと
きに、地番表示だったために住所が連続しておらずに郵便配達がスムーズに行かず、苦肉の策として表札を配ったのかもしれません。(069西堅粕
5でも同じ表札

別府新
(130)

2020/08/01追加
別府新は城南区別府2丁目から
 15年地図8-カ・ヨ。131-0※8草ヶ江本とは同じ街区符号(番)の、別府新が東の通りに、草ヶ江本が西の通りに貼られています。(この時代
は、道路に区切られたブロックが一つの町や丁目ではなく、通りに町名・丁目が付いていた。)

草ヶ江本
(131)

2020/03/01追加
草ヶ江本は城南区別府2丁目から  同じく別府2丁目
 15年地図7・8-ヨ。

草ヶ江本町
(131)

2020/08/01追加
草ヶ江本は城南区別府6丁目から
 城南学園通りの西、中村学園(15年地図 福岡學園8-ヨ)の南からも131草ヶ江本町が出てきましたが、別府2丁目の草ヶ江本とは違い草ヶ江
です。これは123塩屋と123塩屋町と同じく、貼られた時代で表記が違うのでしょう。塩屋・塩屋町と同じく、草ヶ江本は番号が2桁、草ヶ江本町
は200番台です。

中浜
(132)
中浜は城南区鳥飼6丁目から 城南区鳥飼4丁目からも 2020/08/01追加
 15年地図7-カ。鳥飼6丁目は城西高小(現城西中学校)の東になりますので、15年地図の上中浜町一丁目に該当すると考えています。

2020/08/01 15年地図上中浜町一丁目域と思われる鳥飼6丁目から見つかった2枚を貼っていましたが、新たに鳥飼4丁目からも132中浜
を見つけたので、一枚は貼り換えます。0※0-4は鳥飼小学校の東から見つかりましたので、下中浜町一丁目に該当するのではと考えています。

中浜町
(135)

2020/08/01追加
135中浜町は城南区鳥飼7丁目から 同じく鳥飼7丁目から
 同じ中浜ですが132は中浜、135は中浜町です。これも123塩屋と塩屋町と同じように貼られた時代の違いかもしれませんが、それにしては頭番
まで違ってきています。市営中浜住宅が15年地図の炭鉱跡(6・7-カ・ヨ)に該当するのでしょうが、左の0※8-1は市営中浜住宅の北から出てき
ていますので、下中浜町三丁目域と思われます。

一方、右の1※1-2は同じ鳥飼7丁目でも城西中学校(15年地図城西高小7-ヨ)の西から出てきていますので、上中浜町三丁目に該当すると考
えています。

15年地図では上中浜三丁目の西に龍王町一丁目・二丁目が見えますが、七隈川に架かる竜王橋と下竜王橋しか痕跡を見つけられていません。



ちなみに元年実測図で見ると、当時はまだ現役の炭鉱だったようで、同所から室見川の河畔に掛けて積み出し用らしい軌道が走っています。元年
実測図では見えにくいので昭和2年福岡市及付近図で見ると、どうやら単に運炭軌道と呼ばれていたようです。


(137)

2020/04/01追加
隈は城南区長尾2丁目から
 隈は筑前國續風土記拾遺に、下長尾村の枝郷として小笹(尾笹)と共に記載があります。15年地図12-カ。

上長尾
(142)
上長尾は城南区樋井川3丁目から  同じく樋井川3丁目から 2020/07/01追加
 15年地図14-カ。

2021/02/01 15年地図13-ヨには野添の字が見えます。小笹から下長尾を経て堤に抜ける道は、現在の県道555号小笹2丁目の南で分
岐して、(現在は大池通と交差する樋井川1丁目東交差点で一部連続していませんが)油山観光道路城南市民プール角に至る道ですが、これは曲
淵ダムから平尾浄水場への導水管が埋められた福岡水道(15年地図13-レ)です。

野添の「添」のすぐ西を南北に走る黒の実線が一本松川ですので、一本松川の東かつ福岡水道の南ですので、城南区樋井川1丁目になると思われ
ますが、痕跡はなにも見つけられません。
産神は御子神社(拾遺の記載では御子大明神社/樋井川3丁目43)

練兵場

この敷地標は、たしか長住2丁目の長住北公園だったはず
 15年地図の上長尾と下長尾の間には練兵場が見えます。(13・14-カ/戦時の17年地図からは跡形もなく消えている。)

同地図では鹿助池(南区西長住2丁目)の北側にこじんまりと書かれていますが、実際は西長住2丁目の鹿助公園を始め、南区長住1丁目の長住
東公園・同長住2丁目の長住北公園・同長住5丁目の長住中央公園・同長住6丁目の長住南公園と、長住中の公園に陸軍の敷地標が埋設してあり
ます。多少の距離は曳いた(移動させた)のかもしれませんが、ほぼ長住中が練兵場だったのでしょう。そしてその一部が、戦後に長住団地を建てる
一塊りの土地として使われたのでしょう。

後述します前牟田・奥牟田は下長尾の小字ですが、上長尾の小字としては筑前國續風土記拾遺に棚頭・横内と並んで牟田の記載があります。明治
の小字略図や上長尾村の産神 御子神社に掲げられた碑には大牟田となっています。

現在の南区長住は大牟田と言われたようです。牟田は湿地の意味ですが、そうであればこそ未開の地で、広大な練兵場を作れたのでしょう。


大辰

2020/10/01
 元年実測図では、桧原と東油山の間に「太辰」らしき地名が見えます。「辰」ではなく中が「又」もしくは「文(の点がない)」のように見えますが、それ
はもう私には読めない漢字です。同地図に載る井手(桧原村)と横内(上長尾村)の字は、それぞれ筑前國續風土記拾遺に両村の民居として記載が
あり、現在もバス停に名を留めています。東油山古野の地名表示の上には、笹池(城南区東油山1丁目10)らしき池も見えます。太辰の場所は上
長尾(樋井川)・東油山・桧原が境を接する、ぎりぎり上長尾側でしょうか。

その位置関係を元に探したところ、城南区樋井川7丁目5と南区桧原7丁目60の間の、駄ヶ原川に架かる橋にそれらしき名を見つけました。欄干に
掛るプレートは「大辰」橋と読めます。反対側にはひらがなのプレートも掛かってしますが、石に傷があったからでしょう4文字目が上に寄っており、
「つ」ではなく小さな「っ」に見えますが「おおたつ」なのでしょう。

元年実測図のみがこの地域を掲載しており、他の地図と見比べることが出来ません。「太辰(中が又もしくは文)」と書いて「おおたつ」と読んだのか、
単に「大辰」を間違えたのか、今のところはわかりません。

小笹
(143)
小笹は中央区小笹2丁目から
 15年地図11-ワ。

下長尾
(145)
下長尾は城南区長尾4丁目から 同じく長尾4丁目   2020/06/01追加
 15年地図12-カ・ヨ。下長尾は1枚しか見つけられていませんが、玄関をリフォームされたようで、左端が玄関枠の下になって読めません。

この状態では045なのか145なのか判断できませんが、小笹(143)は下長尾村の枝郷です(筑前國續風土記拾遺には尾笹と記載)から、下長尾
と一連の番号を付されていたと考え、145としています。(とすると間の144は、同じく枝郷の隈もしくは前牟田でしょうか?)※その後、隈は137で
発見。

2020/06/01 完品の下長尾を見つけることが出来ました。頭番はやはり145でした。

2021/02/01 15年地図12-ヨの下長尾の西には浦山の記載があります。上長尾で書きましたように、この浦山と神松寺の間の黒で描かれ
た実線が一本松川ですから、浦山は下長尾と一本松川の間かつ下長尾八幡宮よりも南にあったと思われます。該当の城南区長尾5丁目を歩いて
みましたが、成果はありませんでした。
産神は下長尾八幡宮(長尾5丁目1) 下長尾八幡宮の注連縄掛柱は白水 淡の揮毫

前牟田

前牟田のNTT電柱表示は南区長丘4丁目から
 早良郡下長尾村のうち、前牟田と奥牟田(長丘域)は現在南区になっています。

15年地図には13-カに前牟田の記載があります。該当地域からはNTTの電柱表示しか見つけられていません。

奥牟田

市営奥牟田住宅は南区長丘3丁目に
 15年地図には14-ワに奥牟田があります。記載の場所が現在の大池通り長住2丁目の交差点あたりに見え、下長尾域(南区長丘)なのか上長
尾域(南区長住)か微妙ですが、明治の小字略図には前牟田と並んで大字下長尾の小字として奥牟田の記載があります。 

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

桧原
(150)
桧原は南区桧原2丁目から
 15年地図域外。長丘(下長尾村)・長住・西長住(上長尾村)・桧原・柏原は現在は南区ですが、江戸時代からの早良郡域です。

現在の南区を構成するその他の町は旧那珂郡になりますが、那珂郡は那珂川水系の村々と考えていますので、樋井川水系となる上記の村や郷が
早良郡に属すのは自然です。(柏原村の最東端の新池古池は、那珂郡屋形原村の箱の池と連携した那珂川水系。)

福岡市が政令都市となって区制が敷かれたのは1972(昭和47)年ですが、それまではこれらの町は早良郡という意識が強く、南区に編入されたこ
とに驚きがあったかもしれません。そういう事情で桧原・柏原は西新営業所管内だったようです。今となっては、逆に早良郡だったといわれてもピンと
きませんが。

元年実測図には檜原の字として井手が載っていますが、大辰の欄でも書きましたように、井手はバス停(南区桧原7丁目)や井手公園(桧原7丁目4
9)・その横を流れる浦田川(樋井川水系)の前井手橋にその名を残しています。



また、元年実測図では檜原の町の西はずれに「文」が見えますが、南区桧原5丁目9番に桧原尋常小学校跡の記念碑が建っています。



ついでに私の覚書です。元年実測図では卍が道路の南にあります。現在の逍遥寺(桧原3丁目8)は県道49号(大野城二丈)線の北沿いにあり、こ
れは道が付け変わったのか、寺が近接移転したのか?
産神は五社神社(拾遺の記載は五社大明神社/桧原2丁目24)

柏原
(150)
柏原は南区柏原4丁目から 同じく柏原4丁目   2020/06/01追加
  15年地図域外、頭番は桧原と一緒。

元年実測図には柏原の字として、柏原古野・中嶋・三十田・水谷の記載があります。古野は南区柏原1丁目10前に古野バス停として名を留めてい
ます。

中嶋は柏原1丁目52と同4丁目22の境に掛る橋に、中橋として名が残っています。同地図の柏原(=本村)と書かれた文字の下にある卍が照安
寺(柏原4丁目16)で、本村の南には埴安神社(柏原4丁目20)の鳥居マークも見えます。古野(1丁目)と柏原(本村/4丁目)の間に中嶋(中島)
があるのは元年実測図の位置関係と一致します。

 中島橋       三拾田橋

三十田は、駄ヶ原上池下池や萩ノ原峠へ至る道から、花畑園芸公園から柏原7丁目に下って来た樋井川沿いと見当をつけて探しましたが、実際は
もう少し下流の、柏原6丁目7と同11の間に掛かる橋にその名を残していました。欄干のプレートには「さんじゅうだ」と刻まれています。
水谷も三十田の東ですので同じく柏原6丁目でしょうか、明治の小字略図にはその字はなく、一帯は区画整理されていることから、痕跡を見つけられ
ていません。

元年実測図には記載はありませんが、柏原6丁目15に柏原ゴソ公園という不思議な名前の公園があります。このような不思議な名の場合はたいが
い字名なのですが、明治の樋井川村の小字図を見ると、確かに該当の地域(三拾田の東)に「ゴソ」の字が見えます。



柏原はこの他にも、拾遺の記載(産神以外の祠や白石<花崗岩>が採れること)や、明治の小字図の地名がよく残っているのですが、それはまた
機会をあらためて。
産神は埴安神社(拾遺の記載は十六天神社/柏原4丁目20) 山田の産神は羽黒神社(羽黒大明神社/柏原6丁目の先<大字370-1>)

橋本
(163)
橋本は西区橋本2丁目から 同じく橋本2丁目
 15年地図域外。


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