近江國


 近江は東海道と中山道の分岐(合流)点があり、交通の要所であるとともに、琵琶湖の水運を使った物流の拠点として、そして京都防衛・逆に牽制の前線として、古来より重要な地域といえるでしょう。

 江戸時代を通じて、彦根に赤備えの井伊家を置き続けたのも、家康・幕府がいかに近江が重要かを考えていたからでしょう。近江で一番大きな藩(以下、領・御家中を藩と表記します)は彦根藩 井伊家30万石(最大35万石格)で、膳所藩本多家7万石・水口藩 加藤家2万5千石と続きます(いずれも代表的な大名家)。

 そこに小藩や他国藩の飛び領・公料(代官所領)・旗本知行地が複雑に混じり、幕府が近江を重要と考えたこそなのでしょうが、村単位・さらには村を2分・3分して、かなり細かく領地が切り分けられています。

 安土桃山の近江を考えると、安土城(現近江八幡市)を拠点に、天下を統一しつつあった信長・坂本城(現大津市)を拠点とし、その信長を倒した光秀・光秀を倒し、さらには賤ケ岳(現長浜市)の戦いで、自らが築いた長浜城(長浜市)を奪い返した秀吉・佐和山城(彦根市)を拠点とし、関ケ原の戦いの実質的な西軍代表者といえる三成と、日本史に燦然と輝く名ばかりですが、最終的には家康・江戸幕府に呑み込まれた家々と言えるでしょう。そうであれば、江戸幕府にとって近江は、空き家とは言いませんが、ある程度自由に処分できる土地だったということかもしれません。


 私領境である長浜領境石を除き、現存する各領境石が3面彫りになっていることから、これらはすべて街道沿いに建てられ、街道を通る人に対して、司法権・行政権を主張したものと思われます。

 藩領に境を接する公料(代官所領)や旗本知行地領の境石は現存していませんが、たとえば吉田松陰の西遊日記の嘉永3年(1850年)9月4日には、『(前略)古賀と云ふ所、往還筋五十町許り公料なり。公料の界、皆木柱あり。大書して曰く、「是れよりム(それがし)方角字高木定四郎御代官所」と。』と、肥前の例では、公料境には木柱が建っていたと書き記しています。

 代官が変わると代官名を書き直す必要があったこと、大名・旗本の加増の際に、村単位で切り貼りされ所属が変わることが多々あったことなどから、石柱ではなく木柱だったようです。

 2022/10/01

膳所領
文 字
 三面に) 従 是 東 膳 所 領
 
前/右          (文字のない面を裏として)          裏/左
場 所
 現在は栗東市林33先の薬師如来堂に。東海道上 栗太郡林村の全域と、西隣りは同郡六地蔵村(同市六地蔵)の、1,245石のうちの361石(石高は明治初年時点、以下同)が膳所領域でした(残りは公料<大津代官所領>・前橋領)。

六地蔵村の膳所領域と林村が、どこで連続していたのかによって、この領境石の原位置が変わってきます。(角川日本地名大辞典で見ると、六地蔵村は分属となっており、相給ではなく坪分け<領地区切り>だったようですから、どこかに領境があったのでしょう。)

六地蔵村の膳所領域が、東海道上の東西で林村と連続していたならば、六地蔵村内の膳所領と他領(公料もしくは前橋)境に置かれたことになり、六地蔵村の膳所領が東海道に乗っていない場合(林村と南北で連続していた場合・そもそも繋がっていなかった場合)は、林村と六地蔵村の境が領境となります。

現在地は、東海道上 林のほぼ中心地で、境となるべき場所はありませんから、いずれにしても移設されています。
備 考
 是より東石が現存しているということは、是より西石も建っていたはずですが、東海道上では林村の東隣りの伊勢落村(栗東市伊勢落)は、359石のうち333石とほぼ膳所領域、その東の甲賀郡石部村(湖南市石部)も2,053石のうち1,750石が膳所領域です。

さらに東の柑子袋村(湖南市柑子袋)は全域が淀領となりますので、是より西膳所領石が建つとすれば、石部と柑子袋の境(もしくは石部村内膳所領と公料の境)になりますでしょうか。

(※)膳所の文字ですが、現地で「膳」はにくづき偏からすぐに読めたのですが、これを「所」と読めるのか、文字を指でなぞってみましたが、私はこの漢字を知りませんでした。

一応見たまま  とメモを取りました。栗東市岡に、「従是西膳所領」石のレプリカがあるとのことで、東海道を一里ちょっとでしょうか、ぷらぷら歩いて見に行きましたが、



レプリカの分文字が鮮明で、やはり私がメモした通りの文字のようです。 帰宅後にグリフウィキで調べると、
「所」の異字体(筆記体)として  の掲載があります。この文字(の系列)のようです。

現在レプリカ石があるこちらの膳所領は、東海道上では栗太郡岡村(栗東市岡)のみが該当し、東海道上岡村の東隣りの同郡西目川村(栗東市目川)は三上領(旧高旧領取調帳データベースでは、廃藩置県時なので吉見領)になります。ここに領境石が建っていたという記録を私は目にしていませんが、わざわざレプリカを作ってあるということは、是より西膳所領境石が東海道上 岡と西目川の境に建っていたのでしょう。

岡村の西(北西)隣りは、同郡大路井村(おちのい/栗東市大路)かと思ったのですが、現代地図を見ますと県道116号(東海道)上 岡と大路3丁目の間に、小柿10丁目が存在しています。小柿は公料(大津代官領)及び淀領になりますので、東海道上岡と小柿が領境となり、是より東(すみません、なぜか西としていました。訂正します)膳所領境石が建っていたのでしょうか。

2023/02/01 追記
今昔マップから草津 明治25年測図 明治28.5.29発行で見ると、東海道上の該当の場所(小柿10丁目)には小柿新屋敷の町があります。         追記ここまで 

私は膳所領境石を、林の1基と、岡のレプリカの計2基しか知りませんが、近江国滋賀郡膳所(大津市膳所)を本拠とする膳所藩は、別保村(大津市別保)から膳所城下を経て西ノ庄村(同市西ノ庄)や草津(草津市草津)など、他にも街道上に領地を持っていましたので、街道上の各領境には領境石が建っていた可能性があります。
サイズ
高さ 107×横 21.5×奥行 21.5(cm) 花崗岩                           2022/10/01


淀領

 淀藩 稲葉家 10万2,000石は、山城国久世郡淀(京都市伏見区淀本町)が本拠ですが、その領地は、遠くは常陸・上野・下総など何ヶ所にも分かれており、近江にもかなりの領地を持っていました。

 近江国栗太郡のうち淀領域は14村あり、上山依(61/402石<現在は御園の一部>)・小柿(307/943石)・坊袋・上鈎・寺内(現在は上鈎の一部)・小野(237/518石)・出庭(138/2,149石)・小平井(281/506石)(以上、栗東市)・上笠(497/899石)・上寺・平井(282/987石)(以上、草津市)・焔魔堂二町・古高(以上、守山市)で、野洲郡のうち淀領域は13村あり、三宅・十二里・播磨田・今市・川田(423/1,049石)・荒見(以上、守山市)・北桜(北櫻)・行合(同郡仲畑村と合併し現在は行畑)・久野部・小比江(12/258石)・安治(382/666石)・六条・井ノ口(井口)(以上、野洲市)となります。()内は「淀領の石高/村の総石高」(四捨五入)。記載がない村は全域が淀領。

 国立図書館デジタルアーカイブ 天保の近江国国絵図(天保9<1838>年)を見ますと、このうち上鈎村は東海道上にあり、上鈎村の東西の村(領)境には、淀領境石が建っていたとしてもおかしくはありません。(小野村も東海道上の村ですが、淀領域は約半分で、残りの半分は公料<大津代官所領>です。小野村内淀領と公料の境がどこにあったのかを調べきれませんでしたので、確定的なことは言えません。)

 2022/11/01 

二町村
文 字
 三面に) 従 是 北 淀 領
 
前/右          (文字のない面を裏として)          裏/左
場 所
 現在は、守山市二町町161 教願寺の境内に。上記の通り二町村は淀領ですが、二町村の南の栗太郡綣村(へそ/栗東市綣)は、公料(大津代官所領)及び旗本 渡辺氏知行地になりますので、中山道(県道2号線)上、二町と綣の間(現在の守山市と栗東市の市境)、現代の住所でいうと、守山市二町町53−2先あたりに建っていたのでしょう。今昔マップから 草津 明治25年測図 明治28.5.29発行で見た原位置。同地図当時は野洲郡物部村(二町)と同郡大寳村(綣)の境界線が見えます。
備 考
 国立図書館デジタルアーカイブ 天保の近江国国絵図(天保9<1838>年)から該当の部分を見ますと、二町村は中山道上の村とは描かれておらず、栗太郡綣村と同郡焔魔堂村の間に「二町村の内 出在家村」が見え、こちらが中山道上の村となっています。憶測になりますが、二町村の中心部が中山道に乗っていなかったので、経済上の利益を得るために、中山道上に新村を建てたのでしょう。出在家は在所(家)を出た新村という意味なのでしょう。

中山道上 二町村の北は、同領焔魔堂村
サイズ
高さ 129×横 21×奥行 20.5(cm) 花崗岩            2022/11/01・2023/02/01加筆

焔魔堂村
文 字
 三面に) 従 是 南 淀 領 
 
左/前          (文字のない面を裏として)          右/裏
場 所
 現在は、守山市焔魔堂町62 諏訪神社境内に。中山道上の二町村・焔魔堂村は淀領ですが、その北隣りの今宿村は宮津領になります。よって、焔魔堂町11−2先に、今宿の宮津領境石と向き合って建っていたのでしょう。今昔マップから 草津 明治25年測図 明治28.5.29で見た該当の地点(地理院地図との間で若干のずれが生じています)。
備 考
 焔魔堂村の南は同じ淀領 二町村ですから、二町村の淀領領境石と焔魔堂村の淀領領境石は、中山道上 南の領口(二町)と北の領口(焔魔堂)の対となる領境石が、両方とも原位置の近くに残っています。
サイズ
高さ 125×横 21.5×奥行 21(cm) 花崗岩                             2022/11/01

行合村
文 字
 三面に) 従 是 北 淀 領  
 
前/右          (文字のない面を裏として)          左/前
場 所
 現在は、野洲市行畑1−6−9 蓮正寺境内に。行畑は明治12(1879)年に、野洲郡行合村(江戸時代は淀領)と同郡中畑村(江戸時代は旗本知行地)が、合併して出来た合成地名です。天保の近江国国絵図(天保9<1838>年)から該当の部分を見ますと、中山道上は行合村域となり、行合村と南の野洲村の内 四つ家の間に建てられたものでしょう(野洲村は、下記の斎藤春之助知行地)。

現代の住所でいうと、野洲市行畑1−14 四ツ谷八幡神社の先あたりでしょうか。今昔マップから 石部 明治25年測図 明治27.3.28で見た西(左)のマークの地点になりますが、明治25年時点で野洲と行畑は一体化しています。
備 考
 四つ家は行畑側の四ツ八幡宮や、野洲側には四ツ自治会館(野洲市野洲31)等が見えますので、現在でも字名として残っているようです。

中山道上 野洲郡行合村の北(北東)隣りは、同郡小篠原村(同市小篠原)で、公料(大津代官所領)及び、こちらも下に書きました斎藤春三郎知行地になります。これより北石が現存しているということは、これより南(南西)石もあったはずで、行畑1−1 行事神社先あたりに建っていたのでしょうか。今昔マップから 石部 明治25年測図 明治27.3.28で見た東(右)のマークの地点

淀と領の間で折れ、補修。


 ここから先は覚書程度ですが、旧高旧領取調帳データベースでは、栗太郡大路井村(おちのい/草津市大路)は「斎藤 ・ (まゝ) 知行」となっており、名が伝わっていません。しかし、圓融寺(草津市草津)のホームページでは、大路井村を知行するこの斉藤氏は、斉藤利三の五男である三存(みつなが)を祖とし、栗太郡・野洲郡・蒲生郡に6,000石を持っていたと書かれています。三存は下総で2,000石ほどでしたが、代を重ねる間に加増していき、三存から数えて四代目の三政(かずまさ)の時代に、6,000石にて近江に移ったようです。

旧高旧領取調帳データベースで検索すると、近江には栗太郡・野洲郡内に知行地を持つ斎藤春之助(1,733石)、野洲郡・蒲生郡に知行地を持つ斎藤鋳之助(2,195石)、野洲郡に知行地を持つ斎藤春三郎(1,490石)と、よく似た名前の3人の斎藤氏がいます。幕末(明治初め)の石高になりますが、斎藤春之助・鋳之助・春三郎の3人に、大路井の「斎藤 ・」分616石を足すと6,032石(四捨五入の誤差あり)になりますので、幕末までに三政の6,000石は分知されていったのでしょう。よって大路井村の「斎藤 ・」もこの3人のうちの誰か(栗太郡に知行地を持つ春之助か?)、もしくは大路井村は単独で600石以上ありますので、4人目の相続者でしょうか。

斎藤利三の末娘がお福ですから、三存はお福の兄に当たる人です。明智光秀家臣だった斉藤家は、山崎の戦いで敗れ利三も処刑され、以降没落しますが、春日局となったお福の願いにより復興し、兄たちは旗本となります。

一方、お福が竹千代(徳川家光)の乳母となるため(諸説あり)離縁した稲葉正成も、関ケ原の後は主君の小早川秀秋の元を出奔しており、小早川家断絶後は浪人の身となりましたが、春日局の縁により家康に召しだされ、のちに十七条藩主となります。

この正成やその嫡子正勝(母はお福)の後裔が淀藩稲葉家ですから、春日局によって再興を果たした親戚である両家が、近江に於いてサンドイッチ状に領地を持っているのは、何かしらの縁かもしれませんし、2家を再興させ、幕末まで繋いだ(繋いだのは局の力だけではないでしょうが)春日局の権勢のすざましさを思い知らされます。
サイズ
高さ 93×横 20×奥行 19(cm) 花崗岩                                2022/12/01


宮津領
文 字
 三面に) 従 是 北 宮 津 領  
 
前/右          (文字のない面を裏として)          左/前
場 所
 現在は守山市今宿の個人宅に、濱松領境石と共に。焔魔堂村の淀領境石欄に書きましたように、中山道上 焔魔堂村の淀領境石と向き合って建っていたものと思われる。今宿2−4−27先あたりになるでしょうか。今昔マップから 津 明治25年測図 明治28.5.29で見た該当の地点(地理院地図との間で若干のずれが生じています)。
備 考
 宮津藩 本庄松平家 7万石は、丹後与謝郡宮津(京都府宮津市)を本拠としますが、近江国内にバラバラと領地を持っていたようです。栗太郡1村・野洲郡2村(その他、甲賀郡と蒲生郡に合わせて17村※1)とのことですが、栗太郡は今宿村(守山市今宿)が該当し、野洲郡は守山村(守山市守山)と吉身村(守山市吉身)が該当します。

よって、この3村は中山道上でまとまった領地です。是より北石に対する是より南石は、現在は守山市埋蔵文化センターで展示されているようで、原位置は吉身村と同郡野洲村(旗本知行地)の境、現在の守山市と野洲市の境になるようです。この地域では、野洲村(野洲市野洲)が野洲川を越えて東に張り出してきており、野洲川を村境(現市境)としていません。吉身4−5−47−1先あたりになるのでしょうか。

「是より南石」がある守山市埋蔵文化財センターも尋ねたかったのですが、バスのアクセスが悪く今回は諦めました。

※1宮津領 甲賀郡 今郷村※2・徳原村・高嶺村・大原中村・滝村・竜法師村・三大寺村・岩坂村・牧村・江田村
             (以上、現甲賀市)・三雲村(現湖南市)
        蒲生郡 馬淵村(現近江八幡市)・葛巻村(現東近江市)・中在寺村・小野村(以上、現日野町)・
             小口村・庄村(以上、現竜王町) 地図で検索するだけでも気が遠くなります。

※2旧高旧領取調帳データベースでは今宿村となっているが、甲賀郡に今宿村は存在せず、今が付くのは今郷村と今在家村なので、今郷村のことであろう。
サイズ
高さ 127×横 21×奥行 21(cm)                                  2023/01/03


濱松領
文 字
 三面に) 従 是 北 濱 松 領 
 
前/右          (文字のない面を裏として)          裏/左
場 所
 現在は守山市今宿の個人宅に、是より北宮津領境石と共に。

守山市のホームページから、守山古道研究会の中山道筋の道標を見ますと、志那街道(中山道の脇往還)上、野洲郡金森(かながもり)村(浜松領/守山市金森)と、栗太郡大門村(膳所領及び公料<大津代官所領>/同市大門)の境に置かれたものとなっています。
備 考
 同じく守山古道研究会の中山道筋の道標には、「金森村は代々旗本水野氏知行地だったが、水野忠邦が文化14(1817)年に肥前唐津領から遠江浜松領へ転封した時に、浜松領となったのではないか」とされています(史料は滋賀懸史略図とのこと)。


2024/01/01追記・変更
 HP中山道筋の道標を参考に、金森村が浜松領だったのは水野忠邦時代だったとしていました。ところが浜松市史第2巻(浜松市役所編集/昭和46年)の482ページに忠邦時代の浜松領「天保十(1839)年知行地」が記載されており、その所領は遠江国内に6郡240ヶ村約6万石(村名の記載あり)と、近江国蒲生郡9村・坂田郡8村・浅井郡10村の27ヶ村1万石(村名の記載はなし)で計7万石となっています。

この典拠は「知行目録」(東京都立大学 水野家文書)とされており、私はその中身を見ていないので不確定情報になりますが、根拠とされるものがお家の公式文書ですので、これが1万石加増後の忠邦浜松領域でまず間違いないと思われます。知行目録には近江浜松領の村名も記載されているはずですが、掲載が浜松市史なので県外域は割愛されているのでしょう。

浜松市史(知行目録)の記載に拠りますと、ここに記していた「野洲郡金森村は水野忠邦時代に浜松領だった」という記述は、誤りの可能性が高いと言わざるを得ません。

同じく浜松市史第2巻(P248)には「浜松藩領基本部継承一覧表」という、各時代の浜松領域が掲載されていますが、忠邦以前の寛延2(1749)年の松平資訓時代に「6郡のうち」・松平家の後に浜松に入った宝暦8(1758)年の井上正経時にも「2郡のうち」とそれぞれ郡名・村名・石高不詳ながら近江に所領があったとなっています。(典拠はいずれも<寛政>寛重修譜とされる。)

松平時代・井上時代の近江国内浜松領の詳しいことはわかりませんが、松平資訓の父 資俊の元禄16<1703>年時(第一次本庄松平期)には、近江の所領は記載がありませんので、資訓が浜松に再封された第二次本庄松平期以降は、規模の大小はあっても近江に領地があったのでしょう。

水野時代には野洲郡に所領を持っていないことはほぼ間違いないようですから、金森村が浜松領だった時期があったとしても、第二次本庄松平(寛延2(1749)〜宝暦8<1758>年)もしくは井上時代(引き続き宝暦8〜文化14<1817>年)になるかもしれません。特に本庄松平時代には、近江国12郡のうち半分の6郡に所領を持っていたとされており、野洲郡もしくはその近隣の郡に浜松領があってもおかしくありません。

現在わかっていることはここまでですが、取り急ぎ訂正します。

参考までに角川地名大辞典の守山市金森村(近世)欄には、「江戸期を通じて旗本水野氏が知行」となっています(同辞典がすべての変遷を追い切っているとは限らない)。明治元年の時点のデータですが、旧高旧領取調帳データベーで検索すると、野洲郡金森村は「水野三郎知行」となっています。

現在のところ、金森村が一時浜松領だったとするだけの根拠が見当たりませんので、ここに記していた場所の推定は一旦削除します。

忠邦時代の蒲生郡(近江八幡市・現在蒲生郡の町等)・坂田郡(彦根市・長浜市・米原市のそれぞれ一部)・浅井郡(長浜市・米原市のそれぞれ一部)はいずれも守山市今宿から遠く、それらの地域からわざわざ今宿まで浜松領境石を曳いてくる理由が見出せません。いずれかの時代に野洲郡今宿村の近隣に、浜松領があった可能性があるのでしょう。

浜松市に数基の浜松領境石が現存するのですが、これらの領境石の建立時期が私には把握できていません。今後浜松にある浜松領境石の研究を含めて検討していきます。 追記・変更ここまで。


事前の情報では、文化財住宅の庭にあり内覧は不可とのことでしたが、庭なので行けばなんとなるだろうと考えていました。しかし立派な塀に囲まれた住宅で、外からは境石が全く見えない上に、その文化財建物には現住されていらっしゃいました。

訪問したのはお盆(旅に出られるのはまとまった休みしかありません)の夕刻でしたので躊躇しましたが、せっかく行きましたので意を決してチャイムを鳴らしたところ、快く見学させていただきました。感謝いたします。
サイズ
高さ 133(118)×横 20×奥行 20(cm) 現在の全高は133cmですが、本来地中に入るべき粗削り加工部が露出しており、境石としての高さは118cmで採りました。     2023/01/03・2024/01/01訂正・追記

トップへ
トップへ
戻る
戻る




長濱領(朱印地)境
長濱領(朱印地)境