浜松市中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブから 天竜川と東海道:わが町文化誌(浜松市天竜公民館編/平成6年)のP56(60枚目)に江戸期の東海道・天竜川西岸富田村〜薬師村という略絵図(リンク先はPDF/以下、天竜公民館略絵図と言います)が載っており、これは東海道分間延絵図(文化3<1806>年)を参考に作られたものとなっています。
同略絵図では、安間川西岸の薬師新田村と安間村の間に2基の私領傍示杭(濱松領境石)と1基の御料傍示杭が建っていたように描きこまれています。東海道分間延絵図は東京国立博物館の画像検索から見ることができますが、
全体画像はこちらから
東京国立博物館 研究情報アーカイブズ 東海道分間延絵図第6巻より(矢印は私が加工したもの)
私には同所には、標柱状のものは最大でも一基だけが描かれているように見えます。(画像の解像度が低く不鮮明で、そもそもこれが標柱であると言い切ることはできません。)
一方で、国立国会図書館デジタルコレクションから東海道絵図巻第六 金屋ヨリ浜松マデ 13/20コマ(天和元<1681>年頃作製とされる)を見ますと、「阿んま(村)」の位置が若干おかしいですが、確かに「江戸よりおおよそ六十里」の一里塚の西、安間川に架かる橋( 天竜公民館略絵図のいう安間川板橋)が描かれ、その西詰に「是より西 濱松領」の標柱が描きこまれています。天和元((1861)年というかなり古い時代の史料ですので、ここに描かれているのは境石以前の木柱の境標ではないかと考えており、このままの姿で明治を迎えたとは限りませんが、ここに領境標が建ち、後の時代に領境石に建て替えられたであろうことは想像できます。
天竜公民館略絵図がなにを根拠に作図したのかが私には掴めていませんが、「私領傍示杭」という史料に依ったと思われる書き方(普通は浜松領傍示杭となるでしょう)がされており、なんらかの史料があるのでしょう。そして、2基の「従是西濱松領」境石が現存していることは事実です。
2基の領境石が街道の領口の左右に建つというのはあまり見ませんので、1基は別の場所(別の領口や他街道上)に建っていたのではないかと検討してみました。
例えば、安間村で東海道と分岐する姫街道は、安新町(長上郡安間新田村/公料)の北で一瞬だけ北島町(同郡北島村/浜松領)をかすめるようですが、すぐに下石田町(同郡下石田村/旗本 服部氏知行地)域になるとともに、安間新田村と北島村の境は南北の位置関係です。
その後、同郡市野村(浜松市中央区市野)までは他領域で、同郡小池村(同区小池町)からが浜松領になり、その境ではこれより西が浜松領になります。今昔マップから 三方原 明治23年測図 明治25.11.29発行で見たこのあたりが該当しますが、後の時代になって、ここから薬新町に持ち込んで2基並べて建てたと考えるのは、ちょっと現実的ではないでしょう。
そこで、いちおうこの天竜公民館略絵図に従い、なぜここには2基の濱松領境石が並んで建ったのかを考えてみます。
現代地図で読み込むと、薬新町と安間町は安間川を境としておらず、安間町が安間川西岸に張り出しています。そして東海道上で安間町が凸、薬新町が凹になっています。東海道上でこれより西が完全に浜松領と言えるのは、凹の一番引っ込んだ地点になりますので、この特殊な領境に合わせて、凹の一番引っ込んだ地点の東海道上南北両端に浜松領境石を建てたのでしょうか?
そうであれば、薬師新田村1と2の濱松領境石は、東海道の北側では薬新町101−2先・東海道の南側では安間町791の西あたりの東海道両端に建っていたのでしょうか。今昔マップから 濱松 明治23年測図 明治25.10.29発行で見たこのあたりが原位置となりそうです。
試しにこの2基の領境石の文字を比べてみます。「従是 濱松領」のどれかで比較すれば、増楽村の濱松領境石含めて検討できたのですが、西石2基の文字は状態がよくないので、一番単純な「西」で比較してみます。

薬師新田村1としている石 同じく2としている石
一画目の「ー」の筆の下ろし方や、二角目・三画目が六画目を突き抜けるところはよく似ています。正確には拓本を取らなければわかりませんが、今のところはよく似た特徴を持つ字と言えます。
また天竜公民館略絵図では、御料傍示杭も安間川西岸に私領傍示杭(濱松領境石)と並んで建っているように描かれています。しかし安間川西岸の東海道上では、薬師新田村(北)と安間村(南)がオンラインですから、本来は安間川の東岸が「これより完全に公料」と言える地点になり、御料傍示杭が建っていたならば、安間川東岸の安間新田村に建つべきではないかと考えます。安新町94もしくは76先になりますでしょうか。
吉田松陰の西遊日記では嘉永3(1850)年に、肥前(長崎)の公料の境には『公料の界、皆木柱あり。大書して曰く、「是れよりム(それがし)方角字高木定四郎御代官所」』と、木柱の領境標が建っていたと書き残しています。公料が建てた境標は木柱だったので(そしてもちろん、明治以降は旧政権の象徴だったので)、公料境標が建ったとしても現代には残っていないと考えています。 |