脊振山の山頂付近の国境争いは、天和三年(1683年)に起こり、幕府の手を煩わすこととなり元禄6年に幕府の裁許を得て解決します。この争いは結局肥前の全面勝利となりますので、筑前側の「黒田家譜」にはあっさりと経過が書かれているだけですが、勝ち組の肥前側の肥前風土記を始めとする各資料には膨大な量の記載があり、またそれとは別に当時の両村の古文書等も残っています。
脊振山東側尾根は航空自衛隊の脊振レーダー基地があり勝手に捜索することが出来ません。2006年に一度、そして2007年5月にもう一度入らせてもらい現在2基(
17及び
19)を確認しています。現地内を見た感触では基地内にはあるとしてももう1基(18)でしょう。