脊振山 (神崎市服巻)


 
 脊振山の山頂付近の国境争いは、天和三年(1683年)に起こり、幕府の手を煩わすこととなり元禄6年に幕府の裁許を得て解決します。この争いは結局肥前の全面勝利となりますので、筑前側の「黒田家譜」にはあっさりと経過が書かれているだけですが、勝ち組の肥前側の肥前風土記を始めとする各資料には膨大な量の記載があり、またそれとは別に当時の両村の古文書等も残っています。

 脊振山東側尾根は航空自衛隊の脊振レーダー基地があり勝手に捜索することが出来ません。2006年に一度、そして2007年5月にもう一度入らせてもらい現在2基(17及び19)を確認しています。現地内を見た感触では基地内にはあるとしてももう1基(18)でしょう。

 基地の外(西側)では現在7基(1356789)を発見しています。


 
脊振山周辺の地図

「黒田新続家譜」及び「肥前脊振弁財嶽境論御記録」に於けるこの国境争いに関する記載

『片旁』の文字について



1
文 字
片旁 一 
 
場 所
備 考
前面(文字の上)に営林署が明治時代につけたと思われる「山」があります。また左に穴を穿ってあり「W」の文字が入った金属が埋め込んであります。(これは何か不明です)

木の陰にならない位置にあり、風雨に晒されっぱなしで風化してかなり文字が読みにくくなっています。
多分100年後にはもう読めないでしょう。
サイズ゙
高さ 47×横 55×奥行 43(cm) 花崗岩自然石(文字面加工)

2は未発見です。

3
文 字
片旁 三 
 

場 所
3は気象台レーダーの西になります。
備 考
裏面に明治時代に営林署が付けたと思われる「山」の文字があります。
サイズ゙
高さ 54×横 37×奥行 40(cm) 花崗岩自然石

4は気象台のレーダー基地を建設した際に、気象台の建設担当者が文化財ではないかと気づいて取っておくように依頼したにもかかわらず、
建設を請負った会社の現場関係者が、文化財が出てくると面倒くさいので、気象台レーダー施設の下に埋めてしまったと言う話を聞いています。
(私が直接聞いた話ではありませんが、直接携わった気象台職員から聞いた話だそうです。) 気象台レーダーの位置

5
文 字
片旁 五
 
場 所
5は気象台レーダーの東になります。
備 考
サイズ゙
高さ 33×横 41×奥行 20(cm) 花崗岩自然石

6
文 字
片旁 六 
 
場 所
備 考
サイズ゙
高さ 54×横 78×奥行 72(cm) 花崗岩

7
文 字
片旁 七
 
場 所
備 考
文字面を上にして倒れている。
サイズ゙
高さ 90×横 55×奥行 22(cm) 花崗岩

8
文 字
片旁 八 
   
場 所
備 考
サイズ゙
高さ 55×横 47×奥行 左27・右13(cm) 花崗岩

9
文 字
片旁 九 


 
場 所
弁財天西尾根。
備 考
サイズ゙
高さ 45×横 56×奥行 自然石(cm) 花崗岩自然石

矢跡
弁財天上宮下の脊振山中に穴を穿った跡が残る花崗岩の自然石が残っています。
弁財天の普請に使おうとして途中で諦めたのでしょう。

脊振山頂 弁財天
   
                 弁財天                      「肥前國」の銘も誇らしげな元禄10年の石灯篭

 
東尾根     (脊振山頂弁財天より両国境の尾根を望む)     西尾根
場 所
脊振山頂
備 考

役の行者
 
 
↑画像をクリックすると大きな画像で見られます。     
場 所
航空自衛隊レーダー基地の中にありますので、フェンス越しのお参りになります。
備 考
台座に元禄13年6月建立の銘があるそうです。筑前国続風土記貝原益軒著 宝永6年<1709年>)にも
元禄6年以降の国境の小名(小字)として、『役行者』の記載があります。

17
文 字
片旁 十 七 
 
 
↑画像をクリックすると大きな画像で見られます。        
場 所
脊振山の航空自衛隊レーダー基地の中にあります。(脊振山頂弁財天東尾根)
備 考
一応、脊振村作成の案内板があるのですが、レーダー基地内には入場申請が必要でいつでも見られるものではありません。
サイズ゙
高さ 70×横 54×奥行 10(cm) 花崗岩自然石

19
文 字
片旁 十九 
 
場 所
自衛隊レーダー基地内
備 考
裏面に「山」の文字があります。
サイズ゙
高さ 58×横 39×奥行 30(cm) 花崗岩


トップへ
トップへ
戻る
戻る




『片旁』の文字について
『片旁』の文字について