故郷の山河

 去る時


 参謀本部は沿海州に展開していた第十四師団を第十一師団と交代させる予定でいたが、その矢先、間島出兵が起き、第十四師団第二十八旅団が派遣されたりした。

 白水はこの年(1920<大正9>年)11月1日、勲一等旭日大綬章を授与されている。この時の叙勲は51人という膨大な人数で、しかもこの51人の内に文官は5名しかおらず、残りは全て陸海軍将官である。皇族以外では明治9年9月23日に西郷従道が授与されて以来、第二次世界大戦終結までにわずか800名にしか授けられなかった勲一等旭日大綬章であるが、その70年の期間で1回の叙勲でこれだけの人数、しかもほぼ軍人というのは、これ以前には明治39年4月1日の日露戦後の大量叙勲しかない。(この後、昭和9年4月29日・昭和15年4月29日がある。)

 さらに、これは後のことであるが、ポーランド政府はロシアの混乱でシベリアに残されていた多数のポーランド孤児の救出に功があったとして、1925(大正14)年、シベリアに出兵した将官51名にVirtuti Militari勲章を授与して感謝した。

 白水の軍人としての仕事は終わった。1921(大正10)年6月3日、第十四師団長の任務を解かれ(後任は朝久野勘十郎中将)後備入りし、その四十年に渡る軍人生活にピリオドを打った。

 しかし、日本軍がシベリアから完全に撤退するのは1922(大正11)年秋のことである。アメリカではカリフォルニア州での排日機運が高まり、日本では日米開戦の可否について討議され、世界には新しい戦争への足音が近づいていた。



  このVirtuti Militari勲章を授章した51名が誰と誰であったかが、私が調べた限り判明しな
 いのだが、大正9年11月1日の勲一等旭日大綬章もちょうど51名であり、もしかするとこのメ
 ンバーがそのままVirtuti Militari勲章を授章したのかもしれない。そうすると上記の「シベリアに
 出兵した将官」は誤りとなる可能性もあることを付記したい。


大将・中将


 大将・中将・少将を将軍(将官)という。その敬称は閣下である。英語では陸空軍将官はGeneral・海軍将官はAdmiralとなる。

 日本(大日本帝国)陸軍の歴史で、中将となったものは1,200名を越える。その内、大将に親任された者が134名だから約11%の狭き門である。さらに大将134名の内、元帥府に列せられた者(いわゆる元帥)が17名(皇族5名)だから12.7%だ。

 ちなみに西郷隆盛は、はじめ階級として陸軍元帥となり、その後の官制改正で元帥職がなくなり大将となる。日本陸軍唯一の階級としての元帥だったわけだ。そして現役大将の地位で西南戦争の人となる。よって上記の大将の数には含んでいるが、元帥の数には含んでいない。

 大将は親任官(天皇の親任式を経て任命)で総(方面)軍司令官等を務める。中将は軍司令官・師団長を務める(その他の職については後記「枢要なる軍務」)。中将は親任官ではないが、軍司令官・師団長は親任職であるため、天皇に親補(その職にある間だけ親任官としての扱いを受ける)されることになる。

 中将から大将への進級は、「陸軍進級令」第十条に、「中将を大将に進級せしむるには歴戦又は枢要なる軍務の経歴を有するものにして功績特に顕著なる者の中より特旨を以て親任するものとする。」となっている。

 元々は「又は枢要なる軍務の経歴を有するもの」という部分がなく、単に「歴戦者」だった。

 「歴戦者とは中将にして師団長を戦役中に勤めたる者に限る」(中岡黙人事局長大佐)となっていたが、寺内正毅陸軍大臣中将を大将に進級させるときにこの条件に合わず、かといって、今さら陸軍大臣を辞めさせて出征させるわけにもいかず、人事局補任課が研究した結果「このまま2〜30年泰平の世が続けば軍人で親任官となる者がいなくなる。一方文官は一介の商人が一躍大臣たる(機密日露戦史)」、それでは困るということで、「又は枢要なる軍務の経歴を有するもの」という一文が加えられた。

 「枢要なる軍務」とは陸軍三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)・陸軍次官・参謀次長・本部長職(技術本部長・築城本部長等)・軍司令官・師団長・警備司令官・造兵廠長官・航空総監を指す。(後に創設された役職も含む)

 停年(進級の条件)は6年(内規・進級令では4年)だから、これを満たした中将が先任順に審議の対象となる。大将の定年は65歳・中将の定年は62歳だが、中将の数ばかり増えてもしょうがないので、ある一定のところで予備役編入となってしまう。



 白水の同期で言うと、士官生徒第9期が189名の卒業で、その内、陸軍大学校に進み卒業した者は23名しかいない。士官生徒同期(第9期)で陸軍大学校を経て大将まで進級したのが2名、中将が9名、少将が6名である。(田中弘太郎は陸大を経ず大将となる。陸士旧9期全体では、大将3名《福田・町田・田中》・中将10名・少将27名の計40名の将官を輩出している。)

 さらに陸軍大学校での同期(第9期)は14名の卒業で、大将になったのは町田・福田の両名のみで、中将7名・少将2名だ。(一覧表

 ただしこの時期、日清・日露と戦争があり、陸士・陸大の同期にも戦死者を出している。

 ちなみに将校は現役を退くと、予備役・後備役を経て退役となる。しかし、免官されない限り一生将校であり、いつでも階級相当の軍服を着用することができ、「陸(海)軍△将(佐・尉)」を名乗れた。また、私物の拳銃・軍刀を持つことも出来た。よって、白水が退役以降に書いた墨蹟も「元陸軍中将」ではなく「陸軍中将」として書かれたものであり、事実そう書されている。

陸軍大将 乃木希典
陸軍中将  白水淡
(白水のご子孫提供)

  写真が小さくなってわかりづらいと思うが、袖章が、乃木は細線7条(大将)・白水は
 6条(中将)である。また階級章(肩章)もそれぞれ☆3つと2つである。
 (乃木の写真はリンク先の国立国会図書館近代日本人の肖像でかなり鮮明な画像を
 見ることができます。白水の写真の拡大はこちらに。)

  白水のこの軍服(上着と帽子)は現在春日神社に奉納されている。白水に遺品として
 贈られた乃木の大将軍服というのは、上の立襟ダブルボタンではなく、明治37年(日
 露戦争旅順攻囲戦時時)着用と添書きされてある戦闘服(添書きには戦斗服と書かれ
 ている)の上下である。

 春日村での日々


 後備編入後、白水は妻を連れて故郷春日に帰郷した。地元春日では、白水は自分の後備役編入に不満だったと伝わっている。

 しかし、それはどうであろう? 白水は一度も参謀本部付になることなく、陸軍大学校・士官学校等の教官にもならずに、佐官時代に海外駐在武官をすることもなかった。これは端的に白水にその才能がなかったのであろう。

 もちろん、ただひたすら部隊勤務をして中将にまで上り詰めたのだから、部下の統率・部隊運営・作戦指揮には定評があり、そつなくこなしていたのであろう。

 白水より前の世代の陸軍創生期は別にして、この時代の大将は皆、参謀本部の仕事をやり、陸軍学校の教官をやり、若い頃に留学や武官として海外に出、さらには政治(陸軍大臣・次官等)をやった者ばかりだ。これらを一切やらずに白水が中将にまでなった方が不思議だ。白水自身それは十分にわかっていたのではなかろうか?

 58歳が終わろうとする頃、中将の定年(62歳)まであと3年を残して後備役入りしている。「将と大将」の稿でも書いたが、これは別に早すぎるというわけではない。中将から大将にならない9割の者は、後が支えているので大体定年の数年前には予備・後備編入となる。特に師団長や司令官職は、たとえ周りにお付の副官がいるとは言え体力勝負なので、定年まで勤めることはなかった。

 中将として4年、思い返せば後悔することばかりではあったろうが、周りから見れば十分すぎる華々しい軍人人生であったであろう。

 白水が退官するにあたって読んだ漢詩がある。



 退官帰郷

 官 海 浮 沈 五 十 年   弧 舟 繋 得 古 松 辺

 端 蓑 今 日 雇牛 客   一 路 臨Ú風 筑 紫 天

                                       ※雇は「イ就」


 退官帰郷す

    官海浮沈五十年   弧舟繋ぎ得たり古松の辺り

   短蓑今日牛客を雇い   一路風に臨む筑紫の天



 これを読む限り、長い軍隊生活を離れ、故郷でゆっくり出来ることに喜びを見出しており、世上言われている不満とは無縁のようである。

 春日村に帰って来た白水は、故郷春日への思いを多くの漢詩に残している。いくつか紹介したい。



 村 居

 緑 樹 青 苔 旧 草 廬   新 蝉 喚 起 雨 初 晴

 閑 人 自 有 閑 人 業   漫 向盆 池錦 鯉


 村居す

   緑樹青苔旧草廬(いおり)   新蝉喚起して雨初めて晴れる

   閑人自ら有り閑人の業     漫(そぞろ)に盆池に向かって錦鯉に餌す

春日神社



 この盆池は春日神社の池であろう。白水宅から歩いて2〜3分のところに今もある。





 別 天 地

 茅 屋 何 嫌 老 後 閑   無 銭 占 得 筑 州 山

 神 園 橋 畔 別 天 地   日 暮 村 童 枯酒 還


 別天地

   茅屋何ぞ嫌わん老後の閑   無銭占め得たり筑州山

   神園橋畔別天地         日暮れて村童酒を枯って還る

現在の神園橋(白水生家そば)

 

 どうも、帰郷後の自分を閑であろうと規制したようである。しかし、それでもなお、次のような詩も読んでいる。



 寄耕雲生

 雨 酌 晴 耕 養此 神   琴 書 以 外 不

 無Ú端 一 夜 少 年 夢   猶 是 原 頭 駆レ馬 人


 耕雲生に寄す

   雨酌晴耕して此の神を養う   琴書以外は塵も留めず

   端無くも一夜少年の夢     猶(なお)是れ原頭(野原)馬を駆るの人



 馬に乗り、満州の地もしくはシベリアの大地を駆け回る現役時代を夢に見たのだろうか?

 さて、帰郷後の白水は、色々な揮毫を頼まれて、福岡県内に多くの墨蹟を残している。21世紀を生きる私にはわかりづらいが、戦前の将軍というものは、何かにつけ字を書いてくれと頼まれたもののようだ。それだけ尊敬の対象であったということであろう。

 これだけ多くの文字を書けば、墨の乾く間もなかっただろうと思われるが、今回私が唯一お会いできた白水のご親戚の方によると、その方々の父上(白水の母の兄弟の孫/甥の子)が少年の頃、隠遁して春日に村居する白水の家に、行儀見習いというかアルバイトというか墨磨りに行っていたそうである。

 そして若い少年が力任せに墨を磨るのを見、「墨はそんなに力任せに磨るものではない。」と諭したそうだ。また彼が将来軍人になりたいというと「軍人になるなら長州に転籍したほうがいい。」ともいったらしい。

 非薩長閥から出て、実力で中将にまで上り詰めた人の言葉とは少し信じられないが、それほどまでに、大正になってもまだ軍閥は存在し続けたのであろう。

 さて、白水の墨蹟の内、現存するのはほとんどが神社にかかわる碑であるが、他にも忠魂碑・従軍記念碑、そして個人の頌徳碑まで手がけている。それらは次ページ以降「白水淡記念」で紹介するが、その内、ただ一基だけ自分のために建てた碑がある。

 春日村の「社のお墓」(村の墓地であったと伝わる)に建てられた「寂光城」と書かれた碑である。裏面には、「大正癸亥還暦之秋」と、そして、位階も勲等も功級も書かれず、ただ「陸軍中将白水淡建立」とのみ彫られている。

寂光城碑(現在は春日神社内)


 「社の墓」がどこにあったのか私は調べていないが、その墓地こそが白水に文字を学ばせた場所であったのではないか。四十年にも渡る軍人生活を終え、故郷の村に帰り、自分に文字を教えし師(墓石)の前に佇んだ時、そこはまさに寂光城でありえたのかもしれない。

 故郷春日で7年間老後を養った白水であったが、1930(昭和5)年、故郷を離れ東京杉並に移り住んだ。この転居の理由ははっきりしない。

 一つにはこの当時、白水の退職金が3,000円であったということまで周りに噂され、煩わしくもあったのであろう。

 さらに、17歳の時に春日を離れ、以来軍人として働き、極官まで上り詰めた人には、当然在郷軍人会はあっただろうが、語り合う人もサロンもなかったのかもしれない。将軍の苦しみや喜びは、同じ将軍としか分かち合えなかったのかもしれない。

 しかし、私は単純にこれは病を患ったと考えたい。もちろん昭和も5年になれば、日本各地に病院があり、福岡にも福岡陸軍病院があったが、やはり一番水準が高かったのは東京の陸軍病院であったであろう。そして将軍ともなれば、優先的にとは言わないまでも、それなりの礼を持って扱ってくれたであろう。転居先が杉並であることを考えてもそう推測する。

(秋山好古も退官後帰郷したが、昭和5年4月に再上京し、牛込の陸軍軍医病院に入院している。)

 東京に転居して2年もせずに、1932(昭和7)年1月25日、激動の69年の生涯を終えた。

 その14年後、乃木大将遺品収蔵の地の碑を建てた鶴我山は、皮肉なことに米軍に接収され、ベース(進駐軍基地)となる。


 3,000円


 白水の大正10年の退職金、3,000円は現在ならばどのくらいの価値があるのだろうか?

 例えば消費者物価指数で見ると、大正12年0.335→昭和57年1472.1(日銀) 昭和57年82.9→平成16年100.3(総務省)なので、15,840,000円ほどになる。

 一方で当時は1,000円もあれば土地付一戸建てが買えたという。これだと当時の3,000円は現在なら1億円以上になる計算だろうが、地価が爆発的に上がり、建築材料が格段に進化高騰した現在とは比較の対象になりづらいだろう。

 まあ、上の1,584万円が妥当な数字だと思うが、現在の公務員の退職金から見れば少ない金額である。防衛省の某汚職次官の退職金が7,500万円だと言われているが、それに比べれば命を懸け続けた割には雀の涙だが、戦前の農村部ではそれほど現金が動かなかったであろうから、確かに周りの人から見れば驚くような金額であったかもしれない。


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