「西」の文字あたりでひび。一部モルタルを詰めて補修。
この田中領境石は、文字がある前面はもちろん、向かって右面及び裏面はきれいに凸凹なく磨いて仕上げられているのですが、向かって左面だけは故意に削られたような粗削りになっています。

左面/前面(現在文字がある面を表として)
その情報を踏まえてもう一度文字面を見ると、「従是西田中領」の文字は面いっぱいを使って伸び伸びと書かれていますが、左面が削られた分だけ左に寄っており、向かって右には余裕(⇔)がありますが、左は文字がはみ出ています。よって左は右にはある余白の分、少なくとも数cmは削られていることになります。

そしてよく見ると、その削り取られた傷の下に「従是西田中」の文字が見えます(「領」は微妙で、あると言い切れません)。文字を消す目的以外に左面を削る必要を見出せませんので、左面に文字があったのは間違いないでしょう。上記のように向かって左面は数cm削られていると考えますが、それでもなおかつ文字の跡が見えるということは、向かって左面も、現在の表面ほどの深さで文字が彫られていたのでしょう。
「中」の文字が一番よく出ていたので切り出してみましたが、私には左面にも前面とまったく同じ筆跡で「中」の文字があるように見えます。そして、前面の「中」の文字と見比べますと、「打ち込み(書きはじめ)」や「溜め」など筆圧が強い(彫りが深い)部分がよく残っているように見えます。

現地の案内板によれば、この文字は田中藩士 藪崎彦八郎東岳という方が書かれたとされており、篆書体と言うのでしょうか、非常に特徴のある筆跡ですが、左面もまったく同じ手(筆跡)に見えます。なぜ左面に文字が書かれ、そして消されたのでしょうか? この件に関して、藤枝市教育委員会にメールでお尋ねしましたが、お返事はありませんでした。
まず初めに考えたのは、明治以降に誰かが試し彫りしたのではないかということでした。しかしそれにしては特徴ある文字がトレースしたようにそっくりです。画像だとよく出なかったのでここには貼りませんでしたが、「西」の一画目と三画目が大きく離れている特徴なども同じ手に見えます。
もし明治以降に書き加えられたのであれば、わざわざ消さなくても「明治以降に試し彫りした」という解説を付ければ済む話です。さらには削るにしても文明の道具が使えますので、粗削りのままにはしなかったような気がします。
田中領境石は一面彫りだったが、なんらかの事情で文字面に傷が出来たので、横面に文字を彫り直したとも考えてみましたが、その場合は横面ではなく裏面に文字を彫り、新たに表としたでしょう。
では二面彫りで作られたが、なんらかの事情で一面は消さなければならなかったのでしょうか? 二面彫りの領境石は鳥坂峠の宇和島領境石等で現存しています。ただし、横に隣り合った二面ではなく、表裏(もしくは左右)の相対する二面彫りです。
田中領本多家も二面彫りで作って建てたところ、二面彫りはだめだと幕府にとがめられ、一面は削ったとも考えてみました。幕府は前例主義ですので、一面彫りと三面彫りは多く現存しますので認めても、二面彫りは東海道上の周囲の家(藩)も作っていないので認めなかったという仮説です。
しかしそれならば、中途半端に一面を削るよりも、もう一面彫って三面彫りにした方が見栄えがよかったでしょう。同一国内5万石の沼津領は三面彫りの領境石を建てていますし、東海道上で見ても、三河国のそれぞれ23,000石だった刈谷領・福島領は三面彫りの領境石を建てています。譜代4万石の本多家が、三面彫りの領境石を建てられない理由は見つけられません。
もし、何らかの事情で一面は削って一面彫りの領境石にするにしても、東海道上の領口に掲げるお家の顔ですので、こんな乱雑な削り方はしないような気がします。
一つ考えるべきは、現在薬新町にある2基の濱松領境石も、二面彫りだった(可能性がある/確証が持てません)うちの、一面がモルタルで埋められています。同欄にも書きましたが、モルタルが使われだしたのは近代になってからです。隣国(モルタルが使われた近代では同一県内)でのことでもあり、これとも併せて考える必要があるのかもしれません。
いずれにしろとこの件に関して私は正解を持っておらず謎です。
ちなみに、周防・長門国境に毛利家が建てた一ノ坂の国境石も、一面の文字を削られていますが、これは逆面に同じ文字が彫り込まれており、(いつの時代かは別にして)向きを修正したであろうことがわかります。 |