天保信濃国絵図(天保9<1838>年/上田市博物館)を見ますと、佐久郡芦田村の西に芦田村ノ内 宇山村(小諸領)が見え、小県郡長窪村と接していますが、宇山村は中山道には乗っていないように描かれています。現代地図で見ても、佐久郡立科町宇山は、国道142号線には微妙に乗っていません。(街道は本村が押さえたのかもしれません。)
馬瀬口石と笠取峠石は、サイズ感はほぼ同じですが大きな違いがあります。馬瀬口石は方角「西」と「小諸領」の間に、お家(領主家)への畏敬を表す空間がありますが、笠取石にはそれがありません。また、笠取峠石は「従」の文字だけが崩し気味に書かれています。これだけ特徴に違いがあれば、文字を書いた人が違うのではないかと思い、並べてました。

こうして並べてみますと、「是」から「小諸領」に至るまで同じ特徴を持っています。どうやら同じ人の文字のようです。
笠取峠石は「従」だけ崩してあること、方角と領名の間に空間があったりなかったりすることから、竿石が完成したのち、現地で記すべき方角を確認してから、フリーハンドで墨書したものを彫ったのかもしれません。
また、笠取峠石の由緒書きは、上記の通り風化しかけており読みづらいのですが、「破却」の文字(メモをしておらず、また画像からも読み込めず、正確な文言は違ったかもしれません)が読めます。文字通り破却したのであればこの石はレプリカとなりますが、それならば上で考察したような両石間の文字に差異は現れず、方角以外は馬瀬口石の文字をコピーしたものとなるでしょうから、単に横倒しに遺棄されたという意味かもしれません。
現存する2基の小諸領境石は、北国街道の東の境(馬瀬口石)と中山道の西の境(笠取峠石)です。それぞれの街道上、逆側の境にも領境石が建っていたと考えるのが常識的ですが、そのような史料を見つけられていません。
北国街道の西側の境は、小県郡片羽村(天保信濃国絵図では大石村の内 片羽村/東御市滋野乙片羽)までが 小諸領、西隣りの同郡加沢村(同市加沢)は上田領になります。
長野県立歴史館が公開する長野県明治初期の村絵図から、滋野村図には境石(分杭)に関する記載は見当たりませんが、加沢村が掲載された県村縮図には、その東側、北国街道上に分杭の字(あざ)が見えます。この分杭は加沢(上田領)の字(あざ)ですので、小諸領だけではなく、上田領にも領境石(分杭)が建てられていたのでしょう。
現代地図を見ますと、北国街道(県道94号線)上、滋野自動車(東御市滋野1589−1〜1595−27)先で、道路を二分して滋野乙と加沢(いずれも東御市)の町丁境となっている地点が発生していますが、
これが滋野村図では、北国街道上最西部の「同郡加沢村」との境・県村縮図では北国街道最東側「大石村界」の、北国街道を限りに村境となっている地点になるのでしょう。そうすると加沢村の字分杭は、この地点より上田領内に、少し内(西)側になります。
一方、中山道の東の境は、天保信濃国絵図では中山道上 平塚村(旗本内藤氏知行地)の西に根々井塚原村が見えますが、平塚村の南にも根々井本郷村が描かれています。 旧高旧領取調帳データベースでは、根々井塚原村は小諸領・根々井本郷村は旗本水野氏知行地となっています。
根々井村の中心部が中山道から外れていたために、また新田開発もあり、塚原村と隣接する根々井村の中山道上に新村を建て、塚原村と隣接する地域との意で根々井塚原村と名付け、元の根々井村を根々井本郷村と呼んだようです。
根々井塚原村は明治9(1876)年に近隣の村と合併して塚原村となりますが、長野県明治初期の村絵図の塚原村全図は、明治9年の合併後の塚原村です。同図は南北が逆になっていますが、現在の中佐都郵便局(佐久市平塚268−16)のあたり、平塚がボトルネック状に塚原に食い込んでいる形は、現代地図でも変わっていません。
そうであるならば、塚原村全図の中山道(バイパスではない県道154号線)上、東の入口あたりに境石(分杭)の形跡があってもよさそうですが、同図には字の記載がないこともあり、残念ながら手掛かりはありません。
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