筑前・筑後 兼用(朝倉市・大刀洗町)
☆
東西方向
(2基)
南北方向
(5基)
南北方向 控石
(2基)
現在の
朝倉市
(筑前)と三井郡大刀洗町(筑後)の境に置かれていた国境石です。
草水(朝倉側地名)・稲数(大刀洗側地名)〜山隈方面へ東西と、同じく草水・稲数〜倉吉・
白鳥に向け南北に膨大な数の国境石が建てられたようですが、今となっては数基しか現存し
ていません。
周辺地図
へのリンク
東西の石は上にナンバリングされており、南北の石にはナンバーがないという特徴がありま
す。しかし、ナンバリングされていない南北の石には
控石
が付いており、その控石に国境石の
ナンバーを示す数字が記してありますので全くナンバリングされていなかったわけではなさそ
うです。
ナンバーなし
ナンバー有り
その他にもこの地域の国境石には
(1)方角が縦書きである。
(2)筑前・筑後の2国が1つの石の両面に書かれてある。
という大きな特徴があります。
(1)に関しては、他の多くの国境石が方角のみが横書き(東・西等一文字の方角を除く)で
あるのに対して、この国境石群は縦書きです。
南北方向の石の筑前側・筑後側の文字を見比べてもらえば分かるように、筑前側・筑後側
それぞれ違う筆跡です。筑前側・筑後側それぞれの役人・石工が現場に集まり、建てる場所
を決め、全ての文字を現場で彫ったため方角を縦書き出来たのでしょうか。
(2)に関してはこの石の他には、
三国境石
(国名なし)・
前原市の領境石
等に例があります。
前原市の領境石については筑前主導で建てられたため、三国境石については3国で話し合い
をして建てたためもやいの石を建てることが出来たのでしょうが、この地域はどちらでしょう
か?
この地域の国境石については、大刀洗町稲数のHさんにいろいろお教え頂きました。Hさん
はこの地域の国境石を調べられている方で、お宅には控石を1基保管していらっしゃいます。
上の左の画像に写られているのがHさんです。
このページはH16/9/26大幅に加筆しています。
上部にナンバーがありますので、草水(甘木側地名)・稲数(大刀洗側地名)〜山隈の東西
方向の境に置かれた国境石と思われます。
周辺地図
へのリンク
また、この東西方向の石は両国とも「従」です。
この東西方向の国境石群に関しては、「稲数・本郷・小隈の境目より秋月往還に寛政8年
(1796年)、数基の石を建てた」記録があります。(甘木市史・設置時の古地図が民家に残っ
ているとのこと)
同じ石の表裏ですが筆跡が違うとともに筑前側「従」・筑後側「
從」という違いがあります。
東西方向
朝倉市馬田
文 字
上) 七 十 (四?)
筑前)従是北東筑前 以下不明
筑後)従是南西筑後國
筑前側 筑後側
場 所
朝倉市の馬田公民館にあります。元々の設置の場所はわかりません。
備 考
下の部分で一度折れており、修復され鉄枠で補強されています。
サイズ
高さ 92×横 24×奥行 20.5(cm)
朝倉市下浦・大刀洗町本郷
(陣内交差点)
文 字
上) 十 六
筑前)従是西北筑前國
肥前)従是南筑後國
場 所
現在は国道322号朝倉市と大刀洗町の境、陣内交差点そば。
備 考
天保の筑前・筑後国絵図に於ける、当該地区の国境杭(石)に関する考証は
こ
ちら
に。
サイズ
高さ 101×横 22×奥行 18.5(cm)
南北方向
草水・稲数〜倉吉・白鳥に向け南北方向の境に置かれていた国境石です。
上部にナンバーを打ってなく、筑前側「従」・筑後側「
從」という文字の違いがあります。
また、私がお会いした方は皆さん国境石は地面に埋まっていたとおっしゃっています。大き
な川沿いでもなく平野部のこの辺りの国境石・控石がなぜ100cm近くも埋没してしまったのでし
ょう?
左筑後・右筑前(実際はこの川より1mほど東【右】)
現大刀洗町中央公民館1
文 字
筑前)従是東筑前國
筑後)
從
是西北筑後國
場 所
現在は大刀洗町中央公民館に置かれています。
備 考
サイズ
高さ 113×横 22×奥行 15(cm)
現大刀洗町中央公民館2
文 字
筑前)従是北筑前國
筑後)
從
是南筑後國
場 所
現在は大刀洗町中央公民館に置かれています。
備 考
サイズ
高さ 101×横 22×奥行き 16(cm)
大刀洗町稲数(民家1)
文 字
筑前)従是東筑前國
筑後)
從
是西北筑後國
筑前
筑後
場 所
大刀洗町稲数の民家です。
備 考
サイズ
高さ 105×横 21×奥行き 15.5(cm)
大刀洗町稲数(民家2)
文 字
筑前)従是東筑前國
筑後)
從
是西筑後國
場 所
大刀洗町稲数の民家です。
備 考
サイズ
高さ 113×横 23×奥行き 15.5(cm)
朝倉市倉吉(民家)
文 字
筑前)従是東南筑前國
筑後)
從
是西北筑後國
場 所
朝倉市倉吉の民家です。
備 考
筑前側後ろに
×
印を付けていますが、元々国境の溝がその辺りを走っており、
この石はその溝の中に建っていた(埋まっていた)そうです。
サイズ
高さ 104×横 22.5×奥行き 15.5(cm)
南北方向 控石
実は私はこの
控石
には
○上の国境石の控石だとすると、国境石よりも立派な控石を作る必要があったのか?
○百数十基もの国境石がこの狭い地域に本当に建っていたのか?
○距離も方角も記載がなくて控石の役目を果たせるのか?
等々の疑問を持っていました。
今回、稲数のHさんにお話をお聞きしたところ、Hさんが実際に昭和の終わり〜平成の初め
に圃場整備の時に掘り出しに立ち会っておられ、国境石・控石の位置関係も大凡あっている
そうです。また、子供の時から農作業時に地面に何かが埋まっているのを感じていたそうで
す。
Hさんは「昔何かの資料で120基ほどの国境石を建てたというのを見た覚えがあるが、それ
がどの資料だったのか思い出せない。」と言われていらっしゃいました。
馬田の国境石のナンバーが「七十台」ですし、控石で現存するのは「百番台」ですので、山
隈〜稲数を経て白鳥・高食までの国境石の総数が120基ほどだったのかもしれません。その
うち山隈〜稲数間の東西は国境石の上部にナンバリングし、稲数〜白鳥・高食間の南北方
向は控石を置いたと考えるとすっきりするのでしょうか?(それでも120基は数が多すぎます
が・・・)
Hさんのお話では、
国 境 石 ―○―――国―――○―――境―――○―――線―――○―
110 111 112 113
控 石 ▲ ▲ ▲ ▲
109/110/111 110/111/112 111/112/113 112/113/114
と、等間隔に置かれていたのだろうとのことです。こういう等間隔・等方向の設置なら距離・
方角がなくても控石の役割を果たすのかも知れません。(実際の国境は直線ではありません
ので地図の取り交わしを行ってもこれだけで難しいかも知れませんが)
天保15年(→弘化元年)は1844年です。
大刀洗町稲数(民家)
文 字
表)百七番境杭
右)百六番境杭
左)百八番境杭
天保十五年甲辰
裏)控石
三月建立
場 所
大刀洗町稲数の民家、Hさんのお宅です。
備 考
サイズ
高さ 91×横 31×奥行き 28(cm)
朝倉市倉吉(天満神宮)
文 字
表)百十番境杭
右)百九番境杭
左)百十一番境杭
天保十五年甲辰
裏)(控)石
三月建立
場 所
朝倉市倉吉「天満神社」の中にあります。
備 考
サイズ
高さ 98×横 29×奥行 29(cm)
トップへ
戻る
その他の筑後境国境石