筑後の銘は有馬藩祐筆佐田修平(竹水)と言われています。この石に関する吉田松陰「西遊日記」の記述
国境石が建つまではこの榎を国境としていたそうです。乙隈・馬市の国境石の正面に立っています。右に石碑を抱え込
んで一体化しています。
今回、国境石の解体・再建の一部始終を見るという貴重な経験をさせていただきました。過去には原田の国境石等も
解体・移設されており、その資料は筑紫野市民図書館等で読むことが出来ますが、隣り合った2つの大きな国境石の内
部(基礎部)を同時に覗くことが出来たのは、私にとって、とても勉強になる幸せなことでした。
現場で教育委員会の方・建設会社の方・建設コンサルタントの方のお話しをお聞きしましたが、両国の国境石は外か
ら見るとほぼ同じ形状ですが、基礎・土台の作り方を見ると根本的に発想が違うようです。
そして、皆さん口を揃えて当時の技術の高さを賞賛されていました。経験から来た技術なのでしょうが、現在の数学的
な計算でもきちんと地震に耐えうる基礎の規模・設計だそうです。
私が色々お聞きした詳しい話は、またいつかまとめたいと思いますが、画像を見てわかる通りこの両国の石は現在の
道路とは平行には建っていません。道が少しうねっていたのを、昭和になって自動車が通りやすいように真っ直ぐにし
たのだそうです。
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