はじめに、天保の国絵図当時に筑後国・肥後国の境となる国境の村は、肥後側は当然ながらすべてが熊本領細川家の領地です。筑後国側は、八角目峠(現在の福岡県道5号線)を境とし、三池郡三池町村(大牟田市三池)以北(東)は柳河領立花家の領域となります。(八角目峠の東西は肥後・筑後国境。)
三池領立花家が政争に負け、陸奥下土手に左遷されたのが文化3(1806)年ですから、天保の国絵図完成の天保9(1835)年当時は、八角目峠より南の三池郡今山・教楽来・臼井・藤田・早米来(以上大牟田市)等の村々は公料(柳河領立花家預かり)です(立花家が半域だけを持って三池に復帰したのは、明治になる数日前の慶応4<1868>年9月)。
さて、両国絵図の一番東に書かれた境杭は、筑後国三池郡四ケ村(大牟田市四ケ)と肥後国玉名郡関村の内 関外目村(玉名郡南関町関外目)の間、豊前街道上に両国絵図ともに「此所境杭有」と記されています。国境の村は四ケと関外目ですが、両国絵図には、筑後国山門郡北関村(みやま市山川町北関)と肥後国玉名郡関村の内 関町(玉名郡南関町関町)との間の距離が書かれています。
筑後側は柳河領立花家が建てた湯谷国境石(先代)ですが、天保の国絵図より15年後の吉田松陰の西遊日記(嘉永3<1850>年年)時点でも、肥後細川家の国境標は木柱だったと書かれています。明治(1868年)までもう16年ですし、肥後の国境石は現存していません(ただし、 郡境石はある)ので、そのまま最後まで木柱だったのでしょう。
筑後・肥後国境に書き込まれた3ヶ所の境杭の内、現存するのは 湯谷国境石だけです。
一つ飛ばして、一番西(有明海沿い)に、筑後国三池郡早米来(ぞうめき)村(大牟田市早米来)と肥後国玉名郡大嶋村(荒尾市大島)の間を繋ぐ三池街道の長洲まわり道(街道名があるはずですが、調べられていません)が見え、両国絵図ともに「此所境杭有」と書き込まれています。この道は三池町村(大牟田市三池)で三池街道から分かれ、海沿いをたどり最終的に玉名郡亀甲(かめのこう)村(玉名市亀甲)の南で高瀬往還(三池街道)と合流しています。
上に書きましたように、天保の国絵図作成時には早米来村は公料ですから、公料域に預かりの柳河領立花家が国境標を建てたのならば、他の例からしても、わざわざ石柱では造らず木柱だったでしょう。対する肥後国境標も木柱ですから、どちらも現代には残っていないのでしょう。
筑後国絵図にも「此所境杭有」と書かれていますので、筑後国側にも境杭が建っていたと考えていますが、三池領立花家時代にもし国(領)境石が建てられていたとしても、柳河と同じ形式の「筑後国三池領」銘だったならば、立花家が陸奥下土手に移封した際に破却されたでしょう。
今昔マップから、柳河 明治33年測図 明治36.3.30発行で見るとここになります。1/50,000地図ですので若干ずれますが、諏訪川を天領橋で越えて来た道となるのでしょう。現代の住所では、筑後側は大牟田市南船津町4−2もしくは4−3、肥後側は荒尾市四ツ山町3−8もしくは西原町2−14の先になるでしょうか。
そしてその2ヶ所の境杭の間に、筑後国三池郡宮部村(大牟田市宮部)と肥後国玉名郡関村の内 関町(玉名郡南関町関町)を結ぶ道が描かれ、両国絵図ともに「此所境杭有」と記されています。
この道は尾尻村の東、豊永村の南(明治9年に尾尻・豊永が合併し、現在の大牟田市橘)あたりで三池街道と言われる道から別れ、宮部村を経て国境を越え、玉名郡上長田村の内九重(くしげ)村(南関町九重)の北を通り、関村で豊前街道と繋がっており、筑後国絵図には「宮部村より肥後國関町まで」の距離が、肥後国絵図には「関町より筑後國宮部村まで」の距離が記されています。(両村が国境の村だったとは限らない。)
一方で、角川地名大辞典の九重村(近世)欄には「下長田村(南関町永山)杉本口から筑後今山村へ道路(木葉通り)が通り、国境の境木があった。」と書かれています。この記事が九重村欄に書かれていますので、木葉通りは九重村をかすめる程度ではなく、しっかり通っていたのでしょう。
角川地名大辞典に書かれた木葉通りは、両国絵図の宮部村と関町を結ぶ道とは、起点・終点ともに違います。ちなみに同辞典の下長田村(近世)の記載は「当村の杉本口から筑前国今山村への道筋があり、杉本口下番所が置かれていた。」となっています。角川地名大辞典の三池町・宮部村・今山村(各近世)欄には、肥後との間の往還については書かれていません。
両国絵図には周辺(筑後国絵図で見た三池山〜湯谷国境石間)に国境越え道は一本しか描かれておらず、そこに「境杭有」と書かれています。角川地名大辞典には、九重を通り筑後との間を結ぶ道は「木葉通り」の記載しかなく、九重と今山の境に「境木が建っていた」と書かれています。
この今山への道と宮部への道が別の道だとすると、境木が建つほどの木葉通りを両国絵図ともに書き洩らしており、角川地名大辞典の調査力をもってしても、両国の境杭が建っていた宮部〜関道の記録を読み込めなかったということになります。
一番北(上)の道は宮部から直接県境を目指しますが、明治33年当時で小径であり、同地図はちょうどそこで見切れていますので、肥後側にどう繋がっていたのかはわかりません。そして現在は、この道を地図上で追うことはできません。
中間の道は八角目峠(福岡・熊本ともに県道5号線)です。
旧柳川藩志 上巻(柳川山門三池教育委員会 1957年)には「寛保年間(1741〜1744年)旧柳川藩領図」が付いていますが、この絵図を見ますと、確かに宮辺(同絵図の表記)から国境に向かう道があり、「肥後玉名郡上床道」とされています。上床は現在のセキアヒルズ(熊本県玉名郡南関町関村)付近の字です。
この道ですと、確かに県境の領域としては九重ですが、目指すのは上床ですのでわざわざ九重には降りずに、国境の領線上を東に辿ったでしょう。

左 熊本県南関町九重 現在の県境 右 福岡県大牟田市宮部
肥後国絵図では国境線上を伝うルートではなく、九重に下りていくように描かれていますので、この道(上床道)ではなさそうです。
間の八角目峠は、福岡・熊本側ともに沿道に神社や野仏等があり、古くから人が行き来していたことが窺えます。
旧柳川藩志 上巻の「寛保年間旧柳川藩領図」を見ると、三池(町村)の南から肥後に道が繋がっており、「肥後玉名郡九重道」となっています。宮部から繋がる上床道と九重道の間には、国境沿いに山が描かれ「腰縣石」なるものが描かれていますが、場所的にこれが大間山を指すものなのか、webで調べても「腰縣(掛)石」を見つけることは出来ません。

八角目峠(肥後から筑後を見る) 天御前宮(大牟田市三池/福岡県道5号線沿い)
しかし、九重から八角目峠を越えるならば、三池の町中へ降りていくはずで、宮部〜橘方面へは三池街道を伝うことになるでしょう。三池に降りずに三池街道と並行し、直接宮部へ向かう道があった痕跡はありません。また、私は境界に関してはGoo地図を一番信頼していますが、同地図によると(Goo地図はサービスを終了しましたのでリンクを削除しました)八角目峠の頂部は三池域となり、角川地名大辞典のいう「今山を結ぶ木葉通り」とは、微妙ですが一致しません。現在の福岡県道5号線は三池と今山の町丁境になっており、県道5号線上で何度か両域を行ったり来たりしますが、基本的には三池と結ばれているといえるでしょう。
ストリートビューで見ると車で行けそうでしたが、無理することはないので今山に車を停め、30分ほどでしょうかぷらぷら歩いて登りました。

筑後から肥後を見る 稜線は三池山〜大間山の縦走路
今山からは舗装路の林道が通っていますが、ちょうど峠で舗装は尽き、熊本側は倒木などもあって荒れていそうです。この舗装が途切れるところが県境だと思い、何か手掛かりになるものはないかと見回したところ、

目の前の石に「山」マークが彫られていました。この「山」印は、営林署(現森林管理署)が境界として彫ったものです。例えば国有林と民有林の境等が該当しますが、ここは熊本営林署と福岡営林署の境界として彫られたのでしょう。
ちなみに、家に帰って確かめたところ、この山印もストリートビューで見ることができたのですが、さすがにストリートビューを見ただけでは気が付けませんでした。やはり現地に足を運んで、自分の目で見て感じなければわからないことは多い。
その後、大牟田市図書館に寄り、参考になる本はないかと探したところ、地元の方が書かれた「今山の歩みと民話」(奥苑光夫著)を見つけました。以下は同書の引用です。
『今山岳と大塔山の鞍部を東西に横断して九重とを結ぶ峠を荒平峠といい、昔は肥後から天秤棒を担いで荒平峠を越え、福岡側に行商に来ていた。一日売り歩き、夕方になると今山の定林寺に集まり、皆で荒平峠を越えて帰って行った。』とのことです。カメラ一台を抱えて舗装林道を登って、疲れているのが恥ずかしくなります。
明治以降の話になりますが、両村間で通婚もあったようですから、盛んに人の行き来があったことがわかります。ただし、現在の林道は当時の荒平峠越え道とは少なくとも福岡側はルートが違い、林道は荒平峠越え道の後継道といえそうです。
こんな近くに九重から三池街道に繋がる、境木・境杭が立つような脇街道(往還)が2本もあったのかは疑問ですが、今山は三池立花家が陣屋を置いた三池新町村(大牟田市新町)に隣接しており、立花家の墓所などもあることから、今山への往還=三池陣屋町へ繋がっていたということでしょうか。一方八角目峠は、豊前街道から柳河城下を目指す道と考えれば、この2つの道は行き先が違います。
そう考えると、2筋あっても不思議ではないのかもしれません。今のところ結論は出ていないのですが、2筋あった(2ヶ所に境杭が建っていた)のならば、両国絵図に描かれた宮部〜関町道が八角目峠になり、角川地名大辞典がいう木葉通りが、荒平峠越え道になるのではないかと考えています。
八角目峠はぎりぎり柳河領域となりますので、参勤交代道である豊前街道上の湯谷国境石ほど立派ではないにしても、石柱で国境標が建てられたのではないかと思うのですが、その証拠・痕跡は見つけられていません。一方木葉通りは、早米来村と同じく公料(柳河預かり)ですから、筑後側にも国境標があったとしても両国とも木製で、現代には残っていないものでしょう。
そして、角川地名大辞典の九重村(近世)欄の「国境の境木」の記述からも、肥後国境標が木柱であったことがわかります。
不思議なことに、この脇街道(往還)と言える木葉通り(もしくは宮部道)や三池街道の長洲まわり道には境杭が建てられていますが、本道である三池街道(高瀬往還)の国境上には、両国絵図ともに境杭の言及がありません。その他の史料からも、三池街道上に境杭についての記述を見つけられません。
また、この両国絵図には「國境不相知」(国境相知らず)との文言が多く書き込まれています。例えば筑後国絵図の三池街道(高瀬往還)上には「このところより早米来村出口道までの間(は)国境相知らず」、その早米来村出口道(一番西の「此所境杭有」)には「このところより海辺までの間(は)山(の)国境相知らず」と書かれています。
街道(往還)上の国境は決められていても、その間の野山の国境は、天保9(1835)年に至ってもまったく定められていなかったようで、それで差し障りがなかったのでしょう。(実際は、一番西の境杭があった早米来村と大島村の間・三池街道沿いの国境の村となる筑後臼井村と肥後平山村<荒尾市平山>では、それぞれ寛文8<1668>年頃に国境争いがあっている。)
一方で、三池街道の東では「この川中央國境」と、関川(肥後国絵図では平山川)中央で国境が定まっている場所もあります。川(水)は命ですので、両国が取水できるように話し合われたのでしょう。
細川家54万石と公領(その前の三池立花家時代から)の間で、国境が定まっていなかったのものん気な話ですが、大牟田市と荒尾市の間に県境があることを、現代でも誰も気にしていません。
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